カルテ658 怪球カマグ(前編) その46
白亜の建物が顕現した数日後の夜も、世界はまるで何事も無かったかのように進行していった。つまり、クラリス・ルジオミールは相変わらず深夜を過ぎても入眠には至らなかった。
「眠れない……」
もはや口癖となってしまった文言を彼女は歌うように口ずさむ。ただし、それまでとは明らかに異なることがただ一点のみあった。彼女の顔面にはつゆほども憂いの表情は浮かんでおらず、むしろ嬉々としてさえいた。その双眸は獲物を狙う夜行性の肉食動物のような光を湛えていた。そう、今宵コーヒーを口にしていないクラリスが寝つけない理由は、緊張感と胸の高鳴りのためだった。
「そろそろか……」
彼女は臥せていた自室のベッドから起き上がると、蛹から黒蝶が羽化するごとく寝間着から洗い立ての黒ローブに着替えた。そのまま机に向かうとやおらペンと羊皮紙を取り出しサラサラと一枚の書類をしたためた。
「ふむ……」
出来栄えを確かめ満足したクラリスは、ペンを重し代わりに書類の上に置くと、必要な物のみを入れた小型のリュックを背負い、音も無く影のように自室を出て行った。闇の中に残された羊皮紙の一行目には、達筆でこう記されていた……「退職願」と。
「ルリコン!」
いつかの晩と同様に、学院長室付近の巨大な紋章の前で呪文を唱えて壁を割った彼女は、出現した階段を下りて速やかに地下へと向かった。長い廊下を足早に歩いて突き当りの両扉まで来ると、くだんの研究室に忍び込んだ。今晩はあのうるさかった槌音も絶えて話し声も無く、室内は水を打ったように静まり返っていて、かえって薄気味悪いほどだった。この区画は明かりもともっていないため、彼女は傍らの燭台に火をともした。
(どこだ……どこにある?)
薄明りの中、瞳孔を猫のように開いて周囲を見渡す。炎の揺らめきと共に周囲の物体の影も揺れ動き、まるで怪物の踊りのようだった。そんな魔物たちの舞踏会場の中で、銀色にきらめく鈍い光があった。
「あった!」
目的のものを発見したクラリスは喜びのあまり声を上げて、ガッツポーズをした。
誠にすみませんが現在年度開始で色々ありまして、次回更新は一週間後の4月15日(火)になります。では!




