カルテ657 怪球カマグ(前編) その45
「だ、大丈夫か、ホンダ先生!? どこか痛むのか!?」
「いえいえ、ちょっとばかり僕のやわなガラスのハートがバキバキになっただけですのでご心配なく。一応こちとら百折不撓で売ってますんで。でも自分の発言でブルーになるなんて、やっぱり口は災いの元ですね」
打たれ強い医師はたちどころに落ち込みから復活し、椅子に悠然と座りなおした。
「ハハハ、いっそその良く動く口はどこかの門外不出の禁断の倉庫にでも封印し、番人に管理させた方が良さそうだな」
今宵初めて彼女は冗談を口にしていた。符学院での道化のペルソナを被らずに素の自分のままでそんなことをしたのは今までかつて無かったことであった。
「そりゃ倉庫の中がうるさくて仕方なくて番人さんが困っちゃうでしょうね……ってこれ以上話すと永遠に止まらなくなるので、本日はこれをもって診察終了とします。お疲れさまでした!帰りしなにカフェインレスコーヒーは差し上げますから、お大事にしてくださいね、ちなみにコーヒーには有用な使い道がいくつかあるんですが、えーっと……」
「クラリス・ルジオミールだ」
「えっ?」
彼女はパイプ椅子から立ち上がると腰を折って宮廷風の優雅なお辞儀をしてみせた。
「長い間本当にありがとう、ホンダ先生。お礼に遅くなってしまい申し訳ないが名乗らせていただく。私の今の名はクラリス・ルジオミールというが、これはあくまで偽名だ」
実は初恋の憧れの年上の男性に、昔の童話に出てきた同名のお姫様のようだと言われてから、この名前を仮の名としているのだと喉元まで出かかったが、そこはさすがに押しとどめた。
「どどどどういうことですか!? いざ名乗っておいて偽名ってのはあんまりじゃないですかセックスさん!?」
「それは一つも言ってない! 先ほども説明したが、現在私はこの符学院に潜伏捜査中のため、止む無くそう名乗っているだけだ」
「な、なるほど! そういやそんなこと言ってましたね」
「いきなり本名を晒すのもいざとなると気後れしてな、すまない。フフッ」
「そんなもんですかねー、僕もハンドルネームとかは本名とは全然違うの使ってますからわからなくもないですが……ちなみに歴代のHNはドラゴン内藤とかA面楚歌とか穴〇蜜彦とかモロ平」
「ちなみに私の真の名はちょっとまだ言えないがな」
彼女は女神もかくやと思われる絶世の美貌に柔らかな笑みを浮かべた。心の底から信頼した者のみに見せる笑みを。




