カルテ652 怪球カマグ(前編) その40
「すみませんねー、だーいぶお待たせいたしました。思わぬトラブルが色々発生したもので……」
言い訳と共に何故か白衣の上から可愛いフリフリのエプロンをつけ、顔にくっきりと蹴り跡のついた本多医師がコーヒーカップを両手に持って現れた。ゆらゆらと立ち上がる湯気が瞬く間に部屋中を芳醇な香りで満たし、二つの真っ白なカップは双子星のように彼女には輝いて見えた。
「い、いや、そんなに待っていないから気にしないでくれ。それよりも、それが……?」
「ええ、これこそが噂のデカフェこと、カフェインレスコーヒーです。あいにくお歳暮で貰った奴は発見できなくて、うちの看護師さんが近所の何でも売ってる薬局の特売で買ってきたやつしかなかったですけど、意外といけますよ。よっこいしょっと。さ、どうぞ! おあがりよ!」
女児向けの猫のようなモフモフしたキャラクターの描かれたエプロンをヒラヒラと翻しながら、本多は椅子に腰を下し、右手のカップを気障っぽく前に突き出す。
「ああ……どうも。猫はあまり好きじゃないんだが……犬派なんでな」
勧められた彼女は、自然とそれを受け取った。先ほどの隣室でのゴタゴタ騒ぎが頭をかすめ、一抹の不安が胸をよぎるも、その琥珀色の魅惑の液体からは蜘蛛の巣に絡めとられた獲物のように逃げられなかった。
「とりあえず勝手に牛乳も入れてきたけど良いですかね? いわゆるカフェオレって感じですが」
「普段は入れたことはないが、まあ大丈夫だろうと思う。それにしても、匂いの方は普通のものとそう変わらないんだな……色は若干違うようだが……」
たゆたう液面にそっと鼻先を近づけながら、素直な感想を述べる。
「うちの優秀な美人バリスタがすげえ気合を入れて抽出してくれたので、匂いと味は折り紙付きですよー。もう少しおしとやかだったらありがたいんですが……ああ、顔が痛い……って、おっと、何でもありません」
ついつい余計なことを言い過ぎるくせのある垂れ目男は、慌てて口を引き結ぶと、自らも左手のカップを覗き込むと大きく息を吸い込んだ。




