カルテ648 怪球カマグ(前編) その36
「……」
彼女は、本多が敬愛するヴァルデケン皇帝陛下や祖国をわけのわからん妙ちくりんな名称で呼んだことにいささかむかつき、剣呑な表情を浮かべたが、その裏では彼の着眼点の鋭さに舌を巻いていた。ささやかな疑問点ではあったが、いずれも意外と奥深い意味を含んでいたから。
「いいだろう、それぞれ自分の知っている範囲で答えよう。まず質問その一についてだが、我がインヴェガ帝国は、定期的にとある場所に使者を派遣し、今後の指針となる信頼できる情報を得ている。その結果、近々符学院に何らかの重大な動きが起こると予想されたため、潜入捜査の必要性が急遽生じたのだ」
彼女の脳裏にかの聖域の姿がよみがえる。帝都ヘパロシアから何日間も旅して苦労の末に辿り着いた、雪に覆われた世界を。
「ほーほー、それって……」
フクロウの鳴き声のような感嘆と共に、本多の垂れ目がひときわ大きくなる。それを一目見た彼女は、やはりこの医師はこちらの世界の物事に深く通じていると確信した。
「そう、あなたが今想像した通り、彼方に住まう女神の地上の御座所こと、ファロム山のお告げ所だ」
知らず知らずのうちに彼女は右手の細い人差し指を天井に突きつけ、ここからでは目視することの出来ない月を指し示した。言い伝えによると、運命神カルフィーナは、お告げ所とまったく同じ造りの月面にある神殿にたった一人で住み、地上を見守っているとのことだった。
「なるほど、あそこは帝国とエビリファイ連合の国境にあるし、どちらも利用しているというわけですか」
「そういうことだ。別に明文化されてはいないが、あの地に手を出すことは両陣営にとって長らく禁忌となっている。誰も運命神の怒りを買って滅びたくはないからな」
彼女は以前使者として訪れた彼の地の光景を懐かしむ。そこでは様々な国の様々な種族が皆平和裏に交流し、諍いなく過ごしていた。ある意味理想郷の一つの形と言えるであろう。ただし、彼らが知りたがるお告げの内容は、争いごとと無関係ではない物が多いのも事実ではあったが。世界は矛盾で満ちていた。




