カルテ642 怪球カマグ(前編) その30
「そうですね、さっきも言いましたけど贈答用の高級コーヒーが流行るくらいですし、本当に皆虜になっているなあとは僕も感じますよ。味の違いはかけらもわかりませんが。匂いの良さは認めますけどね。まあ、マツタケみたいなもんでしょうか」
「フフッ」
本多は鼻をくんかくんかさせてローブを嗅ぐ真似をしたので、つい彼女は噴き出しそうになった。
「しかし私は眠れないからいいのだが、ホンダ先生の方は眠くないのか?」
笑いながらふと気になった彼女は思わず本多に質問していたが、直後に彼のことを先生付で名を呼んだことに、自分でも驚いていた。
「いやあ、かくいう僕もこーんな仕事をしていることからわかる通り、れっきとしたショートスリーパーなんですが、もう何年も何年もやっていて完全に慣れちゃったので、別段そこまで苦痛じゃないんですよ。というわけであまりあなたのお気持ちをお察しできなくて申し訳ありませんけどね」
「い、いや、別に謝る必要はないが、そう言われるとその通りか……」
彼女は慌てつつも、白亜の建物が異世界の時間ではいつも夜間だという言い伝えを思い出した。してみると、この目の前の飄々とした男は、実際の体感時間はどうであれ、五千年間もの長きにわたって夜の世界の中でこういった診察を延々としてきたということなのだろうか? とても人間の想像力の及ぶところではない。どうやら彼は彼女以上に深い闇を抱えているように見受けられ、背筋に冷たい風が吹き込んでくる錯覚に襲われ、戦慄した。
「あと、付け足しておきますと、カフェインってのは厄介なことに消化器官にも作用し、吐き気や嘔吐、下痢などを引き起こすこともあります。だから胃が弱い人は控えるべきではあるんですがね……」
「わかった。つまり私には合っていないということだな。だが、恥を忍んで言うと、私はあの黒い液体にたまらなく魅了されているのだ。今更やめろと言われても、難しいかもしれない。理屈ではわかるのだが……」
グラマリール学院長を凌ぐかもしれない大賢者の前に兜を脱いだ彼女は、初めて弱い自分をさらけ出した。




