カルテ622 怪球カマグ(前編) その10
その日から、符学院のどこかから謎の金属音が毎晩のように響くことになり、寮生たちの間で噂となった。すわ、この前試験の直後に自殺した学生の霊がハンマーを握りしめて教員宿舎を徘徊しているだの、恋人の帰りを貞操帯を着けたまま待っている女教師が欲求不満のあまり留め金を破壊しようと机か何かにぶつけているだの、いずれも根拠に乏しい妄想たくましい与太話ではあったが。ただしその音に怨霊のうめき声のようなものが混入していると主張する者もおり、噂話は更に混迷を極めた。
「眠れない……」
今晩もなかなか寝つけず苛々していた例の部下は、ふと思い立って自室のベッドから降りると、寝間着を脱ぎ捨てもはや室内着と化した教員用の黒ローブに着替え始めた。彼女は普段は符学院の新人女教師として教壇に立っており、その初々しさと天然ドジっ子ぶりのせいでかなりの人気を博しており、特に一部マニアの学生の間では「いけないまいっちんぐよわよわ先生」と密かに呼ばれており、非公式のファンクラブまであった。
(バカね皆……こんな見え透いた薄っぺらい仮面に騙されるなんて)
ローブの袖を通しながら彼女は薄く笑う。昼間の全ては彼女が処世術などのために造り出した世を忍ぶ仮の姿であった。理由はその方が他人に受けがよく、怪しまれたりしないからであり、任務のためにも好都合だったからだ。学院長の前で無能を装っていたのも同様の理屈であった。本来の彼女は出来る女であり、特にその戦闘技術は並みの符学院教師を凌駕する実力を有していた。
(行くとするか……)
こっそり部屋を抜け出した彼女は、一階の奥にある学院長室を目指す。深夜の学院は人気も絶え、夜のしじまに包まれていたが、虚空に響く金属音は、予想通り目的地に近づくほど大きさを増していった。間違いない。
「ふう……」
学院長室の直前にある壁に描かれた、護符をモチーフとした符学院の巨大な紋章の前に立つと、彼女は厳かに合言葉を唱えた。
「ルリコン!」
即座に壁が二つに割れて左右に動き、地下へと続く階段が姿を現す。彼女はごくりとつばを飲み込むと、ランプを片手に、物音を立てずに一段ずつ降りていく。地獄へと至る魔の道を。




