カルテ594 牡牛の刑(後編) その45
ビシッと人差し指をくだんの岩に突き付けたミノタウロスはこれ以上ないくらいのドヤ顔を決めた。一方、ついに発する言葉を失ったケルベロスは風呂場の湯口のライオンのごとく三つの口を大きく開けたまま、目玉が飛び出そうなほど、その太い指が指し示す物を凝視していた。
(そういえば……)
さっきから雄牛がおろおろしていたのは、魔獣二匹の戦闘に恐れをなしていたからではなく、大岩に眠っている同輩のことが気がかりだったのだ。自分のことよりも他人のことを心配するとはなんとも心優しい畜生だと、ホーネルは一瞬感心してしまった。
「そもそも底なし沼に迷い込んで体力が尽きて死ぬようなのってのはどんなやつかって考えたことはあるかい? 俺はあるぞ! そういう哀れな生き物は大抵体力の少ない病気のやつか、老いているか、それか幼い個体が多いはずだ。だからひょっとしたらこういった仔牛が出土するかもって淡い期待を抱いていたんだがビンゴだったぜ!」
相変わらず固まってぐうの音も出ない状態のホーネルに対し、ケルガーはこれ幸いとばかりに怒涛の勢いでまくしたてる。そう、彼がわざわざこの崖下まで足手まといの雄牛を連れてきていたのは、何も散歩のためばかりではなかったのだ。万が一、仔牛の死体が発掘された場合に備えて共に頻繁に足を運んでいたのである。
「いいか、世の中たとえ右手だけでは開かない扉があったとしても、あきらめずに両手の力を合わせれば押し開けることも出来る。今回の件も一緒だ。たとえ薬の力で母乳が出なくても、仔牛の姿を見せればいいってね。そうすれば相乗効果で可能性はぐんと跳ね上がるって寸法よ! どうだ、まいったかホーネル・マイロターグ! 俺の導き出した勝利へのロードマップに! 全ては計算済みの行動だ!」
「「「グググ……」」」
だが、ショックから覚めたのか、ホーネルも徐々に気力を取り戻し、うなり声を出せる程度に回復した。
「どうだ、それでもこれ以上まだ無駄な戦いを続けるつもりか!?」
「あたぼうよ! 別に負けが確定したわけでもなんでもないぜ! むしろ今のうちに逃げ出せばよかったものを! アホ牛が!」
「ハッハッハッ、そういうところだぞケルガー、貴様の抜けている点は。いくらめでたく雄牛から母乳が出たとはいえ、それを知る者はこの場には貴様の他には俺様一人よ。さっきは動揺してしまったが、別に牡牛の刑が終わったわけでもなんでもないわ! 戦闘続行に決まっておろうが!」
「……疲れた」
調子の出てきたホーネルは、少しも譲る様子なく崖を背にして戦闘態勢をとった。




