カルテ589 牡牛の刑(後編) その40
無駄口を叩くのをやめたケルベロスは疑問を感じ、神妙に仇敵の次の台詞を待つ。その間にも北の果ての太陽は早くも寝床につきそうな勢いで、急速に周囲が陰っていく。吠えるような風の声が日が暮れるのを惜しむかのように悲し気に響く。ケルガーのつぶやきにも哀惜の念が宿っていた。
「ホーネルさん、悪いけどあんた、とっくの昔に負けているんだよ。残念だったな。あれをとくとご覧じろ」
「「「ななななな何いいいいいいいいいっ!?」」」
三つの口を極限まで開けて絶叫した魔獣は、その時になってようやくケルガーの視線の先を探る。そこには、戦闘中終始ブルブル震えているだけの、足手まといで役立たずの雄牛が一頭いるだけだった……いるだけだったのだが……。
「「「!?」」」
その光景をにわかには受け入れられず、ホーネルは自分の目を疑った。なんと、その哀れな動物の長い毛の生えた腹の部分から、何やら白い液体がポタポタしたたり落ちていたのだ。それはまさしく……
「「「ぼぼぼぼぼ母乳だとおおおおおお!?」」」
限界かと思われていたケルベロスの顎が、更に数㎝も開口する。そのしずくは地面に着くまでに凍りついて真珠のごとき白い球と化し、ポツポツと地表を叩くとそのままコロコロ転がっていく。さっきから聞こえていた小さなか細い音の正体はこれだったのだ。
「「「ババババババカな!? そんなことが現実に起こり得るものか!? あり得ねえ! 何かの間違いに決まっている! 貴様、大方牛乳瓶でもあの畜生の身体に仕込んであるんだろう!?」」」
動揺したホーネルは口角泡を飛ばしてあらぬことを口走る。ケルガーは薄く笑った。
「語るに落ちたな、童貞先輩よ。そんなもんこの寒空の下じゃとっくに凍っちまうに決まってんだろ。知ってるか? 牛乳は水なんかよりよっぽど凍結しやすいんだぜ。第一こちとらミルクなんてここ数カ月見たこと無いし、渋い紅茶で我慢しているくらいだぜ。ああ、ヘパロシアのカフェの温かいミルクティーが恋しいわ」
いつの間にやらミノタウロスの脳内はミニスカメイド風の店員の姿で埋め尽くされていた。




