カルテ566 牡牛の刑(後編) その16
ケルガーがこっそりおやつゲットに勤しんでいた頃、分厚いコートに身を包んだヒベルナは崖の上の林の中を一人さまよっていた。腰に長剣を吊るし、コートのポケットには護符を何枚か所持するなど完璧な武装態勢であり、ミノタウロス相手に大口を叩くのもやむを得ないと納得させるほどの迫力に満ちていた。実際彼女は現在かなり高ぶっており、荒々しく氷の大地を踏みしめていたが、それは別に狼のせいではなかった。
(くそっ、あの鈍牛のやつ、まだ気づかないというのか!? 天然なのか、それともわざとか!? いっそあの無粋な舌を引き抜いて牛タンにして食ってやろうか!?)
心中イライラした気分で思考を巡らせながら、足元の小石を蹴り飛ばす。極寒の真冬の大気中に陽炎を揺らめかせんばかりの怒気は、ヒベルナの心の声によると、なんとケルガーに起因するものだった。おさまらない怒りのため身体が小刻みに震え、鞘の中の剣をチャリチャリと鳴らす。今は鞘と柄こそ変えてあるが、彼女の真の身分はその刀身に刻まれていた。
(いっそのこと自分から名乗ってみるか……いやいや、それは面白くない。やはりあの鈍チンが察するまで待った方がいいか……?)
あいも変わらず悶々と懊悩する彼女の背後から、密かに迫る影があった。昨夜の白狼のうちの一頭である。手傷を負った哀れな獣は仲間たちと共にいるのが畜生なりに気恥ずかしかったのか、群れを離れてうろついていたところ、偶然人間の姿を発見したのだった。
「グルルルル……」
文字通り一匹オオカミとなった獣はかすかに唸り声を上げながらも、即座に声を噛み殺し、静かに彼女をつけ狙う。憎さ余りある人間の喉元に自らの牙を突き立てねば、この痛みが癒されることは決してなかった。ただし単独での狩りは慎重さを必要とする。白狼は出来るだけ気配を隠してジリジリと彼女に近づいていった。
(ググ……)
ようやく必殺の間合いに入った猛獣は、遂に我慢の限界に達し、よだれを撒き散らしながら獲物に飛びかかった。




