カルテ558 牡牛の刑(後編) その8
「おい、危ねえじゃねえか! 狼だけ攻撃しろよ、アホンダラ!」
「なんだと、それが監督官に対する態度か! そもそも私がお前なんかを手助けしてやる義理はかけらもないんだぞ! まったく、貴重な護符を使わせおって!」
窓際に立つ白金の髪の三十代と思しき女性がケルガーの罵声に負けじと寝起きとは思えぬ大声で怒鳴り返す。何故こんな辺鄙な場所にこんなベッピンさんがいるのかと問いたくなるほどのひなには稀に見る整った顔立ちの美貌の持ち主だが、もったいないことにその髪は男のように短く刈り込まれ、新品のタワシのごとく天に向かって突き立っていた。身に付けているものもケルガーよりはややマシという程度の野暮ったい灰色のコートで、お世辞にも色気のかけらもない。
だがその代わり、彼女の眼光は猛獣のように鋭く、全身から発する威圧感は一軍を率いる將以上の迫力を感じさせ、怪力無双の魔獣に対し一歩も引けを取らなかった。
「わ……わかったよ。すみませんねぇ、ヒベルナ様」
ミノタウロスは仕方がないといった調子でしぶしぶ心のこもっていない謝罪の弁を述べた。
「グググ……!」
予期せぬ新手の出現に、今まで動かず様子を見ていたリーダー狼が、悔しそうにうめき声を立てる。そのまましばらく無音の時が戦場に流れたが、どうやら状況の不利を悟ったようで、今までとは異なる吠え声を発すると、静かに後ずさりし始めた。それを皮切りに他の白狼たちも速やかに退却を開始し、ケルガーとにらみ合いを続けながらも徐々に距離が開いていく。
「おっ、おうちが恋しくなったかいベイビー?」
そしてある程度まで牛小屋から離れると、ホワイトウルフの群れは一斉に回れ右し、来た時とは逆に崖を駆け上り、夜の闇へと消えていった。後には森閑とした深夜の静けさが完全に戻り、氷の大地に残った獣の血の跡だけが今夜の激闘を物語るのみだった。
「やれやれ、やーっとお帰りなすったか。本当にしつこい奴らだったぜ。さて、戻って寝るとしますか、ふあ~っ」
「何を腑抜けたことを言っているんだ。こちらを油断させておいて再度同じ日に襲撃してくるのは白狼の常套手段だぞ。今晩はこのまま牛小屋で寝ずの番をしろ。後、薪は貴重だからちゃんと全部拾っておけ。じゃあな」
豪快なあくびをかますケルガーに釘を刺すと、ヒベルナという短髪の女性は鎧戸をバタンと閉めて退散した。
「えーっ、そりゃねえよー! お布団が恋しいぜーっ!」
しかし哀れな魔獣の嘆きに応える者は誰もおらず、何事もなかったかのように三日月の船が冴え冴えと光を放ちながら天空を漂っていった。




