カルテ555 牡牛の刑(後編) その5
「ウォーン!」
氷夜を切り裂く白狼のリーダーの雄叫びによって、ケルガーの長い回想(現実の時間ではごくわずかだが)は瞬時に雲散霧消した。
「そう急かすなって、ワンちゃんよ。俺様は逃げも隠れもしねえからよ」
傾きかけた牛小屋の前で、ミノタウロスは余裕たっぷりの表情を浮かべた。今までに2匹のホワイトウルフを叩きのめしたため、残るはリーダーを含めわずか3頭。これはもう勝ったも同然である。しかし敵もさる者、全く退く気配を見せず、首を低くして唸り声を発しながら、こちらの隙をうかがっていた。
「やれやれ、ここまで彼我の実力差を見せつけられてもまだわかんねえのか? 悪魔のように賢いとか言っても所詮は犬畜生だな」
いくら嫌味を言っても当然のごとく伝わらず、膠着状態は続いていた。深夜の空気は刻一刻冷たさを増し、コートと牛の毛皮をまとったケルガーの体温すら容赦なく奪っていった。
「長期戦で俺の体力を奪うつもりかい? さすがワンちゃんのボスだけはあるな。だがそっちもおしっこ我慢出来るのかい? そこの柱ならいくら使ってもいいぞ。それにそういう計画なら、こっちも考えが……ん?」
退屈しのぎに軽口を叩いていたミノタウロスだったが、新たな殺気を感じ、ふと上を見上げた。なんと、弓のような三日月に照らされ、崖の上に更なる白い5つの影が出現し、こちらを見下ろしていたのだ。間違いなく援軍だ。
「ほほう、さっきの鳴き声は負け惜しみではなくそのためかよ。こいつはいっぱい食わされたぜ。こりゃあちっとは骨が折れるかもしれんなあ」
地獄のような寒さにもかかわらず、角の下にある彼の額に薄っすらと汗が滲む。先程は待ち伏せや投石などの準備のお陰で2匹を軽々と駆逐したが、実はもはや策が尽きてしまった。せめて護符でもあれば話が違ってくるのだが、現在流刑囚の身の自分がそんな危険物の所持を許されているわけもない。生身で後白狼8匹相手は、己の身を守るだけならば十分可能だが、問題は彼の背後の雄牛だ。
「大切な預かりもののお前に万が一のことがあれば、皇帝陛下に会わせる顔がねえんだよ……」
ケルガーは今夜初めて表情を引き締め、再び両拳を握りしめて眼前の餓えた獣たちに対峙した。




