カルテ541 記憶の宮殿と琵琶法師(前編) その4
「あなたは彼女が見たくて追試間近だっていうのにここに誘い出したんですか?」
「そう硬いこと言うなって。別に変な店じゃないんだし、これくらいいいだろ? それにお前の顔だってなんか赤くなってるぞ、ケケケ」
「……」
その時偶然だが吟遊詩人がこちらを向いてオダインと目が合ったため、もはや彼の耳にはリントンの下卑た笑い声なんぞ何一つ聞こえていなかった。潮が引いたかのごとくあれほどうるさかった周囲のざわめきが一気に消え去り、時の止まった世界の中で、彼はただ一人のみを凝視していた。目の覚めるような緋色の帽子とゆったりとした服をまとい、音叉を片手にしなやかな指先で弦を調整するその姿は、不遜ながら美の女神アイリーアが逆立ちしてもかなうまいと彼は確信した。
「おっ、そろそろ始まりそうだぜ」
リントンの囁き声でオダインはようやく現実に引き戻される。どうやら準備は終わったようで、吟遊詩人は音叉を片付けるとバイオリンを細い顎と肩で器用に挟み、右手で持った弓を弦に押し当てると優雅に動かしだした。ゆっくりとした曲調の楽し気なワルツの音が酒場中に広がっていく。確かに演奏の腕は確かなようだ。
さて、どれだけ見事な天上の美声がその柔らかそうな口元から零れ落ちるのかと期待して食事するのも忘れ、試験の悩みまで一時的に脳裏から飛び去っていたオダインだったが、まるで死にかけのガマガエルの鳴き声のような汚いうめき声が飛び出したので、思わず手にしたスプーンを取り落としそうになった。
「は……? どういうこと?」
「あれあれ~、変だな……」
リントンの目がうつろに泳ぎ、狭い額に冷や汗が流れる。酒場の空気は凍り付き、聴衆の顔はかつてないほど険悪だ。当の本人はと見ると、弓を弾く手をばたりと止めたかと思うとバイオリンを引っ掴んで無言のまま一礼もせずにスタスタとステージを下りていった。そのまま群衆をすり抜けオダインのすぐ側を通ってカウンターの中へ入り、客と同様固まっている店の主人である太っちょのスキンヘッドのオヤジに何か一言告げたかと思うと、そのまま奥へと姿を消した。たちまちオヤジは苦虫を噛み潰したような顔になると、嫌そうに口を開けた。
「あー、皆さん、大変悪いんだが、現在彼女は喉の調子が悪くて今日は申し訳ないが歌えないそうなんで、もしよかったら俺がこれから一丁一曲アカペラで披露して……」
「ふざけんな! クソが!」
「死ねハゲオヤジ!」
「いい加減にしろ!」
「エールお替り!」
たちまち店内は戦場のようなすさまじい怒号と喧騒に包まれた。
皆様、明けましておめでとうございます。今年も異世界医院をよろしくお願いします!




