カルテ540 記憶の宮殿と琵琶法師(前編) その3
時をさかのぼること今から十数年前、ロラメットの下町にある宿屋兼酒場の「天馬のいななき」亭は今宵も出来上がった酔客たちでごった返していた。その木製のカウンター席で黒ローブ姿の符学院の学生オダインは、この世の終わりのような顔をして鉛のような味の飯を黙々と食べていた。
「ほれ、オダイン! 元気出せ! 追試くらいがなんだ!」
左隣に席を占める小男こと同級生のリントンが、ドンとオダインの背中を叩く。おかげで食道に入ったばかりの玉ネギのスープを吐き出しそうになった。ちなみにオダインとリントンはどちらも符学院の学生宿舎に住んでおり、こうして時々一緒に連れだって食事に出かけていた。
「やめてくださいよリントン! ちょっと考え事をしていただけですよ!」
「どうせいくら悩んだって後三日しかないしなるようにしかならんさ。ほれみろ、俺だって同じく追試だけど何一つ考えちゃいないだろ?」
オダインは玉ネギ臭い息を吐きながら物思いに沈んだ顔を上げた。その端正な目元にはくっきりと隈が浮かび、彼の苦悩と睡眠不足を雄弁に物語っていた。
「なあに、万が一不可を取って留年したところで、別に命までは取られんさ。むしろ遊ぶ時間が増えてラッキーって思えばよかろう?」
「楽天的過ぎますよ! 学費だって高いんだし、うちにはそんな余裕なんかありません! 一年余計に払うくらいなら自主退学させられますよ!」
さすがにカチンときたオダインは、右手にスプーンを握りしめたまま無責任な悪友をにらみつけた。
「まあまあ、そうカッカしなさんなって。金なんていざとなりゃどうにかなるもんよ。それよりもせっかく酒場にいるんだし綺麗な姉ちゃんでも観賞して心を和ませようぜ、ほれ」
リントンは怒れるオダインをいなしながらも右手の親指を背中越しに突き出して、背後にある酒場の隅の小さなステージを指し示す。その周囲にはエール酒の入ったコップを持った男たちが群がっているようだった。
「まったくあなたって人はいつも適当なことしか言わないんですから……」
つられて振り返ったオダインは、そこにバイオリンを調弦中の、帽子を被った長髪の麗しい吟遊詩人を目撃し、一瞬心臓が止まりそうになった。それほどその麗人は絵の中から抜け出してきたかのように美しく、たった一瞬で彼のうぶな心を捕らえてしまったのだ。
「彼女は最近この店でよく弾き語りをやっている流れの娘なんだけど、すっげえかわいいしバイオリンは上手いしきれいな声なんだぜ。試験勉強の疲れなんか一気に吹き飛ぶってもんよ。ニヒヒ」
リントンは口元を歪めてよだれを垂らさんばかりだった。
皆様良いお年を!では!




