カルテ538 記憶の宮殿と琵琶法師(前編) その1
ザイザル共和国の首都・学問の都ロラメット。その名前の所以である、街を見下ろす高台にそびえる符学院の教員宿舎で当直中のオダインは、過去の記憶に苛まれて悶々とし、ランプの光に照らされながら眠れぬ夜を過ごしていた。
「ああ……なんて愚かだったんだ、昔の自分は……」
誰しも若さゆえの過ちに苦しめられるものであるが、彼のそれはまた人一倍であった。秀麗な顔立ちで皆に優しく、品行方正、謹厳実直を絵に描いたような存在で、更に優れた符術師でもあり多くの学生や、果ては教職員からも慕われ尊敬されている彼がいまだに彼女すら持たないのは、苦い思い出が心に刻んだ深い爪痕のためであった。その傷口は何年時が過ぎようとも今作られたばかりのように新鮮で、真っ赤な血をドクドクと吹き出し彼の脳内を真紅に染め上げていた。
「いっそ死んでこの世から消えてしまいたい……ああ、時間を巻き戻す魔法さえあれば……」
机に頬杖をつき、人に見られたら幻滅されそうなほど独語をブツブツつぶやきながらぼんやりと暗いビドロ窓を眺めていた彼の瞳に、突如学院の中庭を駆ける黒い影が映った。
「こんな夜更けに一体何事だ!? まったく、夜遊びで街に繰り出した宿舎の学生がこっそり帰ってきたのか!?」
一言注意してやろうと思ってガラッと窓を開けると、なんと予想に反して人影は逃げも隠れもせず、こちらに向かって猪突猛進してきた。
「!?」
不埒な学生ではなく不届きな侵入者かもしれないと判断し、つい習慣的にローブの懐から攻撃魔法の護符を取り出そうとした彼に対し、黒尽くめの人物は片手で制すと窓際に忍び寄り、そっと小声でささやいた。
「俺です、カコージンです、オダイン先生! カミナリ鳥出すのはやめてくださいよ!」
「ああ、なんだ、あなたでしたか。どうしましたか? 今日は例の任務の日ではなかったはずですが、何故そんな恰好を?」
彼は小さく安堵し、出しかけた手を止める。確かに黒衣の人間の頭部は覆面越しにもやけに膨らんでいるのが確認された。間違いなくカコージン本人である何よりの証拠だ。




