カルテ406 ライドラースの庭で(後編) その76
「ジオール様! ジオール神官長様! 起きてください! 早く!」
「ああ……うるさいやつだな……ん!?」
蝉しぐれのように上から雨あられと降りかかる聞きなれた野太い声に眉をしかめつつも、そういえば寝ている場合ではないとはたと気づいたジオールは厚ぼったい一重瞼を薄っすらと開けた。ぶくぶくに膨れ上がった水死体の内臓から発する腐敗臭かと錯覚したほどのおぞましい臭気はすでに雲散霧消していたが、まだ気絶から目覚めない神官たちが床のあちらこちらに転がっており、室内は惨憺たる有り様だった。黒装束の姿は影も形もない。何だかさっきの意識消失時よりも頭痛がひどいのは、嗅覚へのダメージのせいだろうか?
「よかった! ジオール様、お怪我はございませんか?」
「相変わらず頭は痛いがその他はなんとか大丈夫だ。しかしブレオ、あいつは……あの憎たらしい黒頭巾の野郎は一体どうなったんだ!?」
ジオールは未だに彼を見捨てない忠実な使用人の手を借りてゆっくりと立ち上がりながらも、目下脳を悩ませる最大級の疑問について尋ねた。
「は、はい……ノービアの件ですね……それが……」
「!」
急に口を濁らせるブレオを目の当たりにした瞬間、凄まじく悪い予感が体内に染み込んできた。まるで洗い立ての白いハンカチを染める薬草茶の茶色い汁のように……。
「はっきり言え! まさかとは思うがまんまと取り逃がしたとでもうそぶくつもりか!? この部屋の周りは窓の外も含めてちゃんと取り囲んでおったんだろう!?」
眼の色を変え、息せき切って詰め寄る禿げ頭に対し、ブレオはようやく唇を開いて次句をこぼした。
「確かにジオール様のおっしゃる通り、蟻の這い出る隙間もないくらいに固めたんですが、結局奴は外に現れなかったんです」
「はぁ!? そんなバカな話があるか! 闇に紛れていたから見過しただけじゃないのか!?」
「いえ、煙突の穴まで厳重に見張っていましたが、本当にドアも窓もピクリともせず、この部屋からまったく外に出た様子が無いのに、煙のように消えてしまったんです。現在神殿中を探索中ですが、ノービアがどこに逃げたのかは皆目わかっておりません」
「そ、そんな……いくら身のこなしの上手い獣人族とはいえ、そんな魔法のような真似が出来るわけが……ぐぇっ!?」
そこまで言ってジオールはとある方法に思い当たり、ヒキガエルのように汚くうめいた。




