カルテ325 牡牛の刑(前編) その18
天からの白い便りは次第に数を増し、花弁のように風に舞う。雪の精霊たちの輪舞の中、ケルガーは沈黙を貫き、長い長い熟考を重ねた。
幼少期から、AとBのどちらかを選べと二択を迫られたとき、彼の脳裏には必ず赤と青の矢印が出現した。例えば、大好きなママンが、「今日の夕食は魚にしましょうか、それともお肉がいい?」と尋ねてきたときとか、今晩は寝る前に大好きなママンに「ダンジョン呑み婆さん」か「ネコブシ爺さん」かどちらのお話をしてもらおうかと迷ったときとか、大好きなママンのおっぱいを左右のどちらから触ろうかと密かに企むときとか。
今、ケルガーの牛頭の内部には、かつてないほど大きく、かつ鮮明に、それぞれ反対方向を向く槍のごとき赤青二色の矢印が、決断を急ぐかのように点滅していた。赤はエリザスと逃避行しながらドラゴン退治に赴く道へと、そして青はこの最果ての地に留まる道へと、それぞれ繋がっている。
この寒さにも関わらず、彼の額には脂汗が滲み、眉間の縦皺は谷のように深くなった。矢印の点滅はいよいよ激しさを増し、それに伴い音まで響くように思われ、彼の頭蓋内は今まさに割れんばかりだった。
永劫とも思われる時間が過ぎた後、ケルガーは冷え切った口元をそっと開き、苦しみぬいて死ぬ間際の罪人のような声で答えた。
「悪いが、俺は、一緒についていってやることが出来ない、エリザス」
「ど、どうして……」
期待を裏切られたエリザスの声は心なしか震え、まるで捨てられた子犬の鳴き声のようにケルガーには思われた。だが、心を鬼にして、彼は言葉を繋ぐ。それしか今の彼には出来ないから。
「おそらくこの地獄の施設に残れば、俺は再び実験体として人間の尊厳なんぞ虫ケラ以下の過酷な扱いを受け、生きているのが嫌になるような日々を送ることになるだろう、それも死ぬまで」
「だったら私と共に逃げましょうよ! 今ならまだ誰も追って来やしないわよ!」
「だが俺は、あくまでヴァルデケン・インヴェガ皇帝陛下の近衛兵なのだ。たとえ資格をはく奪され、この身は地に堕ちようとも、心は依然として武人のままであり、忠誠心は微塵も揺るぎない。俺は、人は誇りを失ったら獣となんら変わらないと思う。ここで陛下に尽くすことこそが全てを失った俺の最後に示せる矜持なのだ」
まさに獣の姿のケルガーは、透徹した眼差しで皇帝の座す遠い帝都を見据えながら、雄々しく言い切った。




