カルテ311 牡牛の刑(前編) その4
崖下の谷底に転がり落ちた刹那、あまりの衝撃に全身がバラバラになるかと思ったが、頑強な魔獣の肉体は何とか持ちこたえ、辛うじて即死だけは免れた。何とか身体を起こそうと首を捻ったとき、谷を下って行ったやや離れた場所に、煌々と白く輝く建物が場違いに鎮座しているのを目にしたケルガーは、我と我が目を疑った。
「ここは……まさか死後の世界なのか? それとも落ちた拍子に頭でも打ったのか?」
しかし全身を苛む打撲の痛みと、喉の腫れから生じるゼイゼイという荒い呼吸音は紛れもなく現実のものであり、幻覚の類とも到底見えなかった。ちなみに疼痛と呼吸苦に加えて、いつの間にやら身体中に赤い発疹がまばらに出現しかゆみを伴うため、目を開けているだけでも凄まじい集中力を要した。
「ひょっとして、こいつが昔ママンの言っていたアレか? 死にかけのこの俺様を助けてくれるってのか……?」
半信半疑ながらも、無様に任務に失敗し、心がポッキリと折れていた傷心状態の彼にとっては、お告げ所の聖光よりも輝いて見えた。しかも、彼自身つい先ほど気づいたことだが、太い首筋に吸血鬼との戦闘中には感じなかった細い針の刺さったような痛みを覚えており、正直気が気でなかった。落下中のどさくさに紛れ、こっそり彼の後を追ってきた、護符から湧き出たあの忌々しい蜂が、ここぞとばかりに致命の一刺しをお見舞いしたに違いない。
さしもの豪胆な彼も、死刑宣告にも等しい蜂の二度刺しの恐怖に血も凍らんばかりで、もしも願いが叶うのならば、今すぐ懐かしい故郷の実家に戻って優しい巨乳の母親に抱きしめてもらい、今までのは全部悪い夢だよと慰めて欲しかった。
「こ……こんなところでむざむざと死ぬわけにはいかん! グモオオオオ!」
眼前の建物は確かに存在しているものの、時折まるで蜃気楼のように輪郭がおぼろげになることがあり、彼は焦燥感を募らせる。まだ消えてもらうわけにはいかない。一生に一度のこの貴重なチャンスを逃せば、恐らく自分は二度とふるさとの土を踏むことは叶うまい。
たとえこの後どんな想像するだに恐ろしい厳罰を苛烈極まる皇帝ヴァルデケンに下されようとも、全ては命あっての物種だ。生きて、生きて、生き延びるのだ。
「マ……ママーン!」
軋む全身を引きずりながら、涙と涎を垂らしまくって、ケルガーはまるで幼児のように叫んだ。




