カルテ301 眠れる海魔の島(後編) その30
呪文の詠唱によってイレッサの両拳より発射された超音波は、泡を破った後も水中を一直線に駆け抜け、ゲンボイヤの身体に襲いかかった。
「グブオワアアアー!」
大ダコの全身に痙攣が走り、口を開いたまま、まるで風が止んだ風車のようにその動きがぴたりと止まった。マッコウクジラより受け継いだ超音波能力によって、ゲンボイヤを痺れさせることに成功したのだ。ダイオウイカをも失神させる驚異の力は、規格外の魔物に対しても果たして有効であった。
(やったわ! まずは作戦第一段階成功よ!)
イレッサは満足気にサムズアップすると背後の相棒をチラ見する。共に海中に放り出されたゼローダは、予め直前にした深呼吸のためか苦し気な素振りも見せず、長大な銛を右手に握って肩の上に構えながら、ひたすら海魔を睨みつけていた。
緊張したイレッサはごくりと唾を飲む。そうだ、ただ魔物の動きを封じただけでは駄目だ。どうせ奴は十数分もあれば痺れから回復して、破壊工作の続きに取り掛かるだろう。その前に手を打たなくてはならないのだ。
ゼローダは視界が再び悪くなる前にけりをつけねばと右肩に力を込める。手にした銛でやぐらの上から魚を突いて捕ることは朝飯前だが、クジラ捕りでもあるまいし、巨大生物に向かって銛を打ち込んだ経験は残念ながら、無い。だが、今更そんな泣き言は言っていられない。この海の守り人として、そして海魔の血を引く者として、怪物を再度深海へと追いやらねばならない。再生能力が高くて簡単に倒すことが出来ないのであれば、村の滅亡を防ぐためにはそれしか方法はない。
この戦いもいよいよ大詰めだ。すべてはこの一手にかかっている。しかし不思議と心はリラックスしていた。どうやら先ほどのイレッサの無礼なおならが緊張緩和に役立ってくれたらしい。ゼローダはわずかに苦笑しつつも、脳裏に妻と母、そして未だ生まれぬ我が子の顔を思い描くと、双眸に全神経を集中した。早くも火傷の癒えた魔獣の口腔内はあの世に通じる穴のように黒洞々と闇を湛え、海中に停止している。つまりは格好の的だ。
「行っけえええええええええ!」
雄牛のような咆哮と共に、ゼローダは肘関節を凄まじい速さで動かして右手を柳の枝のようにしならせると銛を発射した。
ダツのようにアクアマリンの海を突き進む銛は狙い過たずゲンボイヤの口の中に、あたかも吸い込まれるが如く消えていった。




