カルテ295 眠れる海魔の島(後編) その24
後でわかったことだが、その異形は普段は深海で暮らすダイオウイカという名のイカで、ごくまれに岸辺に死体が流れつく他は姿を見た者はほとんどいない珍しい珍客だった。よく観察すると、どうやらイレッサを狙っているわけではなく、何か別のものに追われて慌てふためいて浮上してきたのが真相のようだった。なぜなら更に深い水の奥底に、全長十メートルはあろうかというイカをも超える巨躯を目撃したからである。
(ぐあああああっ!)
次の瞬間、全身に雷を喰らったような筆舌に尽くしがたい衝撃を受け、イレッサは悶絶し、気を失いかけた。見るとダイオウイカも同様の有り様で、十本ある長い触手を全て痙攣させ、泡を吹いている。
そこへ凄まじい速度で迫る戦艦のような大きさの黒い影がたちまち行動不能の巨大イカを一呑みにしたので歴戦の強者のイレッサも心臓が停止しそうになった。圧巻の魚影は傍で震える矮小なイーブルエルフには見向きもせず、光差す彼方へと泳ぎ去っていった。後にはイカから漏れ出た墨と大量の泡だけが水中に軌跡を描く。
(あれは……ひょっとしてさっきのマッコウクジラ!?)
路傍の石のごとく扱われたために辛くも助かったイレッサは、白目を剥きそうになる双眸をなんとかなだめて小さな点となる大海の覇者の後背を見送りながら、自分がとんでもない攻撃をくらったことをおぼろげながら理解した。
「イレッサ! イレッサ! 起きろ! 目を覚ませ! この役立たずの邪悪な妖精族め!」
「……ん?」
激しく怒声を浴びせかけられたため、イレッサの意識は過去の海中から現在の海中へと瞬時に移動した。
「こ、これって……まさかタコさんのお口の中なの?」
「そうだ! ゲンボイヤの胃袋の一歩手前だ!」
上から悲痛な叫びが降り注ぎ、容赦なく現実の惨状を伝える。声の主のゼローダは、なんと海魔の円形の口の両端に引っ掛けた長い銛に右手でぶら下がっており、左手はイレッサの左手をしっかりと握っていた。気を失っていたイレッサは、ゼローダの咄嗟の機転のおかげで食道への落下を防ぐことが出来たのだ。
なお、二人はゲンボイヤが口から吐いた巨大な球形の泡にすっぽりと包まれているため、今のところは窒息の心配はなく、会話も可能なのであった。




