カルテ290 眠れる海魔の島(後編) その19
「少しは揺れも小さくなったけど、しっかし臭うわね〜。鼻つまんじゃいたいくらいだわ〜」
イレッサの指摘する通り、波のうねりは更に幾分かましになったものの、潮の香りに異臭が混じり出した。人々の全てを飲み込んだ海の発する不快な生活排水の臭いに他ならない。
「意外と繊細だな。所詮海の匂いというものだって、魚の死体が大元だぞ」
「あら〜ん、夢もロマンもないこと言うのね〜、ゼローダちゃんったら〜」
「……事実を言ったまでだ。あと、鼻つまみ者はどちらかというとお前だから、早く下を隠せ」
「ごめんなさいね〜、布一枚持ってなくって。さっきから何か流れて来ないかずーっと待ってるんだけど、昆布すら見当たらないのよ〜」
「……」
イレッサと無駄話を交わしながら、まったくこの邪妖精と話すと調子が狂わされることばかりだな、とゼローダは心底思った。もっとも、脱力作用のお陰であまり恐怖や不安が持続しないという効能もあるが。
「しかし、一体どうしてゲンボイヤは数百年の沈黙を破って現れたんでしょう? 何かあったのかしら?」
妊娠中のため嗅覚が鋭くなっているアラベルがまさに鼻を手で覆いながら、怪訝な顔つきをする。
「確かにお前の言う通りだ、アラベル。こんな天気の良い湖のように凪いだ穏やかな日に復活するなんて、予想外もいいところだ。水面下で何が起こったかまではさっぱりわからないが……」
(ギクギク!)
「そうね〜、世界は謎に満ちているわね〜。ミステリーだわ〜、人生って日々勉強だわ〜」
夫婦の話題が嫌な方向に流れてきたので、騒動の真犯人のハイ・イーブルエルフは心臓に直接アイアンクローを食らったような気分になったが、持ち前の図太さを総動員してポーカーフェイスを浮かべた。
「誰か何も知らない余所者が、海に潜って攻撃でもしたのか? 今日はこの男にしか朝から会ってないが……」
「さあさあさあ、そんな些細なことはどーでもいーから、そろそろ本当にひとっ走りして、じゃなくってひと泳ぎして奴に一発ぶちかまして来るわね〜っ! お別れのハグやベーゼをしてくれちゃっても良くってよ〜!」
まずい空気になってきたのを察知したイレッサは野太い声を張り上げて皆を黙らせると、身体をクネクネくねらせながら、再度飛び込みの準備に入った。
「相変わらず唐突な奴だな……つべこべ言わずに行くならとっとと行ってこーいっ!」
遂に激怒したゼローダが銛を構えてイレッサの身体に突きつける。
「んも〜、雰囲気出ないわね……って、あ〜ら奥さん、それってな〜に?」
身体を二つに折り曲げ中のイレッサだったが、逆さまの視界に奇妙な物が映ったため、股の間からひょいと緑のトサカを突き出し尋ねた。




