カルテ288 眠れる海魔の島(後編) その17
運命の夜、砂浜の焚火を村人と共に囲んで串刺しの魚を焼きながら、ゲンボイヤは寂し気な笑みを浮かべていたという。横から連れの男が一杯の酒を勧めたため、彼は下戸だったが断りもせず一気に飲み干した。村をせん滅するための変身薬が溶かし込まれている魔の杯を。
しかし彼の無骨な喉ぼとけが上下するのを確認し、我が事成れりと安堵したのか男が村人と団らんし、隙が生じたその時、ゲンボイヤは持っていた魚の焼き串を深々と男の右目に差し込み、脳を抉った。変身薬の効果で脳の魔獣化が進み、「帝国軍人を襲うな」という暗示が薄れ、理性が残っている僅かの必殺の間を狙ったのだった。邪魔者を排除した彼は、何が起こったのかわからずきょとんとしている村人たちに向かってありったけの声を上げた。
「皆、今すぐ高台に逃げろ! 俺はすぐに魔獣と化し、村は津波に襲われるぞ!」
動揺する周囲の知人たちに手短に事情を説明しながらも、彼はけいれんする死にかけの男の服をまさぐったり持ち物を調べるも、解毒薬の小さな欠片がポケットに入っているのみだった。男は万が一を恐れ薬を分散させていたのだ。
「なんてこった……だが、これしかもう方法はない!」
絶望に沈むゲンボイヤだったが、最早一刻の猶予もなかった。最後の期待を込めて宝石よりも貴重な欠片を口に含むも、時を待たずして変身が始まり、彼は天を衝く巨大な軟体動物へと変貌を遂げた。だが、奇妙なことに大木並みの太さもある八本ある触手のうち、二本の先端部は人間の指先のように五つに分かれており、他の六本が海へと向かって山のごとき身体を引きずっていこうとするのを必死に阻止しようとしているかに見えた。
しかし所詮は多勢に無勢、奮闘空しく遂に巨体は海へと沈んでいき、やがて彼が予言した通り、大津波が村を襲った。津波の被害は大きく、低地の家屋のほとんどが海の藻屑と化し、遠く国王が座すジャヌビア王国首都にも被害が出たとのことだ。だがゲンボイヤの忠告に従って高台に逃れた者たちは無事に生き延びることが出来た。そして、不思議なことに津波は最初の一回きりで、再来に怯える村人たちにもかかわらず、その後海面は元の静けさを取り戻した。
かくて村に甚大な被害を与えながらも水が引くと生き残った人々は徐々に悲しみから立ち直り、悪魔の消えた海に恐れの目を向けつつも日々の生活を再開した。
数か月後、ファリーダック家の泳ぎの達人が魔獣の消えた方角と思われる沖の方へ潜ったところ、海底から突き出た尖った岩に絡みついたゲンボイヤの巨躯を発見した。その辺りは潮の流れが複雑で様々な物が引き寄せられると言われているので、多分この魔物もそうやって流されて来たんだろうと達人は判断した。そこで自らを触手で縛りつつ岩にしがみついているかのような大ダコの姿を目の当たりにして、彼は心を震わされたという。
かくしてゲンボイヤの真実はとこしえに封印された。




