第1章 5 大島莉乃
朝の日差しはどうも人間をやる気にさせるのが得意らしい。カーテンを開け体中に日光を取り込んだ優斗の身体はこれ以上にないほど武者振いをしていた。昨夜は予想に反して良く眠れた。簡単な話だ。スイッチを使用した気持ちの高ぶりよりもその日、一日の徒労感の方が遥かに上回ったからだ。久しぶりの出勤はそうとうテンションが下がるといが、優斗は楽しみで仕方なかった。洗面台で顔を洗うとそこには精悍な顔つきの男が微笑んでいた。今日で俺の人生は一転する。そう確信した。いや、そう確信せざるおえない状況に優斗はいる。本日月曜日は週で一番暇だから楽ではあるが優斗のやる気スイッチはオンになっている。身支度を済ませ家をでた優斗は軽やかなリズムを刻みながら颯爽と自転車のペダルを漕いだ。心地よい風が首の横、わきの下、足の間をすり抜けていく。ムササビにでもなったかのように全身の体で風を感じていた。嘘みたいだ。こんな感覚は何年ぶりだろうか。中学校?いや小学校低学年以来か。この先、絶対に開くことはなかったリア充という固く閉ざされた扉が優斗の中で解放感マックスに開けている。俺自身は何も変わっていないのに変わっている。この不思議な感覚に浸りながら俺はペダルをこぎ続けた。
バイト先に着き、自転車を駐輪場に止め裏の勝手口から店内に入るとみんな休憩しているのだろうかフロントには誰も居なかった。引き出しからロッカーの鍵を取り更衣室に向かう途中、部屋の状況を軽く確認したが思った通り客数はゼロだ。まぁ、月曜日はこんなもんだ。優斗が着替えを終えフロントに戻ると有紗が立っていた。俺が来るまでは一人で店内を回していたらしい。
「久しぶりね。優斗。どうだった?千葉で渡辺みなみとの握手は?」
「・・・・・?」
渡辺みなみ?いや、俺が握手したのは大島莉乃だが・・・・そのことは事前に有紗には話をしていたはず。
「何よ。黙り込んで。あっ!もしかして握手券を失くして握手できなかったとか。」
有紗は手を口元にやり笑いながら言った。
・・・・・・・・・・・あっ!
そっか、そうだった。そういう事か。俺はやっと理解した。虹クロでの大島莉乃の存在はもうなくなっているんだった。
「ちげぇーよ。ちゃんと握手したよ。どっかのだれかさんと違って超可愛かったよ。」
有紗の顔を見ると鋭い眼光でこちらを睨んでいた。すると、言葉を発する代わりに両手を俺に差し出してきた。
「あーお土産ね。はいはい、買ってきたから。」
俺はバッグの中から以前、テレビで紹介されていたイタリアの有名なシェフが作ったとされるクッキーを差し出した。
「わー。ありがとう。これずっと食べたかったんだよね。」
一瞬にして顔色が変わった。女というのはわからない生き物だ。物一つで感情がガラリと変わる。喜んでいる有紗を置いて裏のキッチンの方へ手を洗いに行くと冷蔵庫で何やらごそごそ作業している誰かがいた。
「あれ?朝のシフトって俺と有紗だけだよな。」
俺は軽い不安と疑問をもちながら恐る恐る横から覗いてみた。すると、小柄なショートカットの女の子が冷蔵庫を開けてごそごそしている。・・・・・・・ん?・・・・・・ん?!・・・・・・んっ?!・・・・・も?・・・し?・・・か?・・・し?・・・て?・・・・それまでニュートラルだった優斗の鼓動は一気にトップギアになった。体中が熱を帯びて胃袋が焼けつくように煮えたぎりだした。まさか・・・・・・・そして、そのまさかだった。その子が俺の存在に気づいてこちらに振り向いた。
「あっ、おはようございます。」
見ているものを吸い込むような大きくて魅力的な瞳。
「・・・・・・・・・・・・・」
「逢澤さんでよろしいですよね?」
聞いているものを優しく包み込むようなアルトな美声。
「・・・・・・・・・・・・・」
心臓が5秒、いや10秒は止まった。
「・・・・・・・・・・・莉・・・乃・・ちゃん?」
現実の世界に自ら創り出した非現実の世界に足を踏み入れた瞬間だった。
「・・・・・・・・・えっ・・・どうして・・・私の名前を?」
彼女は当然のように困惑した表情で優斗を見ていた。優斗はなおも固まっていた。二人を取り囲む懐疑的で奇妙なこの空間に優斗の思考、身体、心はまだ対応しきれていなかった。
「あら、あんたら知り合いなの?」
いつのまにか俺の後ろにいた有紗が肩越しに聞いてきた。
「・・・・・・・・はっ?!」
「今、莉乃ちゃんって言ったから。今日から入る新人の子よ。」
「・・・・・・・・・・」
「ねぇ、どうしたの?まじで気持ち悪いんだけど。早く挨拶したら。」
「・・・・・・あっ・・・・よろしくね。」
彼女の耳には届いただろうか。それぐらい優斗は消え入るような声量で言った。
「・・・・・は・・・・はい。」
なんとか届いていた。
そんな俺を見て有紗は不思議そうにこちらを見て言った。
「莉乃ちゃん。優斗と知り合いなの?」
「・・・・・いえ。」
「えっ?じゃあなんであんた彼女の名前知っていたのよ?まだ、名前教えてなかったじゃない。」
有紗が俺に問い詰める。そらそうだ。
「いや・・・・・あーカンだよ。カン。」
我ながら頭の回転が異常に遅いと思う。小学生低学年がするような言い訳だ。
「カン?」
「うん。」
「カン?」
「うん。」
「すごいな、それって何億分の一の確率?あんた明日から競馬エイトに勤めろよ。」
有紗の皮肉交じりの秀逸なツッコミが入った。しかし、莉乃ちゃんはまだ俺を不思議そうに見ている。
「全く!気味悪い!握手会にいって妄想癖が強くなったんじゃないの。まぁいいや。莉乃ちゃん。こいつがさっき話していた逢澤優斗26歳。ここじゃ店長に次いでキャリア長いからいろいろ教えてもらいな。まっぁ、長いっていってもただのフリーターだから。大したことないわよ。」
「はい。よろしくおねがいします。」
莉乃ちゃんが軽く頭を下げた。有紗は後よろしくと俺に告げるとフロントに戻って行った。俺はゆっくりと振り返った。そこにはアイドル大島莉乃としてではなくアルバイト大島莉乃が立っていた。
「あの、どうして私の事知っているのですか?」
「へっ?」
「いや、私の名前知っていたのから。」
「あー、ごめん。ごめん。あれね、あのー、あれは昨日、店長に電話で聞いていたから。」
「あっ、そっ、そうだったんですね。」
そう言いつつも彼女は釈然としない感じだった。彼女はキッチンにある冷蔵庫の方に振り返って中断していた作業を再開した。俺はまだ戸惑っていた。今、俺の目の前に大島莉乃が同僚のアルバイトとして存在していることに。これは本当に現実なのか。夢でも見ているようだ。
「あのー、何か?」
「あっ!ごめん、ごめん。何でもない。」
フロントで待っているからと言い残して俺はフロントに戻った。戻ると有紗が怪訝な顔つきで俺を見ている。
「あんた、変態なの?なに、ずっと莉乃ちゃんのことじろじろ見ていたのよ。カメラに丸移りだったわよ。」
フロントのモニターにはキッチンに設置してあるカメラの映像を映している。そこに俺が彼女を凝視している姿を有紗に見られた。
「違うっつの!作業が間違えてないか見ていただけだよ。」
必死の弁明。
「どうだか。」
首をかしげながら有紗が答えた。まぁ。そらそうだよな。だけど、経歴変換スイッチは本物だということがわかった。あとは、俺の力量の問題だ。ここからが本当の始まりだ。今まで生きてきた中でここまでギラギラしている自分はいないだろうしもうここまできたら戻るわけにはいかない。この非現実的な世界を認めるしかない。
「どうしたの。いつになく静かね。」
「えっ?」
「いつもだったら昨日見たバラエティ番組の話でもするじゃない。」
「何?聞きたいの?」
「別に・・・・」
・・・・・・・ったく・・・・女というのは・・・・・
「新しく入った子って。どこの出身なの?」
俺は経歴変換スイッチ通りの経歴になっているか確かめたかった。
「出身は千葉らしいよ。心機一転で熊本に来たらしいよ。すごいよね。そんなことする子なかなかいないよ。」
「へ~。そうなんだ。」
俺の入力した経歴通りだ。
「あんたも少しは彼女を見習いなさいよ。自分変える為に異国の地で単身乗り込んできたんだから。」
「はいはい。わかりました。ところで就活はうまくいっているの?」
すると、有紗は獲物を狙うライオンのようにきっとこちらをむいて目をぎらつかせた。今、彼女にとって一番シビア質問だったことに言ったあとに気づいた。
「うまく、いってないわよ。」
そう言った後、彼女はハっと何かを思い出した反応をして俺に近寄ってきた。
「何!?」
「実は昨日、変な客がきたのよ。」
「変な客?」
「そう。すっごい綺麗な女の人がストーカーに追われているからかくまってほしいって言われたの!」
「で、どうしたの?」
「たまたま、店長から電話が入って電話している間におそのお客さん、店を出て行っちゃった。」
「変な客だな。」
「ねぇどう思う?」
有紗が詰め寄ってくる。
「うーん。状況がよくわからないな。でも、あんまり気にしないでいいんじゃない。もうこの店に来ることもないと思うし。」
すると、有紗は大きくため息をついて
「あんたは、そういうところがダメなのよ。彼女に助けてって言われたのよ。」
「でも、もういないんだろ!どうしようもないだろ!」
「必ずもう一回、来るわよ!私がいなかったら絶対、話聞いてあげるのよ!わかった!」
「わかったよ!ちょっと、キッチン言って莉乃ちゃんの様子見てくるわ。フロント任せたぞ。」
俺は逃げるようにキッチンへと駆けこんだ。
「何が莉乃ちゃんよ。私には呼び捨てするくせに。」
有紗は吐き捨てるように言った。
「さっき、有紗さんが言っていた握手会というのは何の事ですか?」
「あー、あれね。実は俺が俺一年前から小説家にはまっていて。その作家の握手会が千葉であったからこの前行ってきたの。」
小説なんてここ10年は読んでない、アイドルファンといったら絶対に引くだろう。
「えっ!そうなんですか。小説お好きなんですね?」
彼女は眼を輝かせながら聞いてきた。
「うん。莉乃ちゃ・・・あっいや、大島さんも好きなの。」
「そんなんです。私も小説読むのが小さいころから好きなんです。ちなみにどの作家さんの握手会ですか?」
すっかり忘れていた。そういえば大島莉乃は幼いころ両親の共働きの影響で遊んでもらえず本ばかり読んでいたとテレビで聞いたことがある。これはやばいことになった。こんな展開になるとは思っていなかった。しかし、ここで関係性は作っておく必要がある。
「えーと、村上夏樹かな。」
適当に有名な作家を答えた。
「えーすごい。私あの人の小説難しくて読めないんですよ。」
「いや、なんてことないよ」
やばいぞ逢澤。
「じゃあ、今度お時間あったらどんな内容か教えてもらっていいですか?」
「うー、いいよ別に。」
おいおい、そこらへんにしとけ逢澤。
「明後日、出勤されます。」
これを答えたらもう逃げられねーぞ逢澤。
「うん、出勤する。バイト終わりに教えよーか?」
「はい、ありがとうございます!楽しみにしています。」
いばらの道が決まった。結局欲望には勝てず最後まで見栄を張ってしまった。村上夏樹?
名前しか聞いたことねぇよ。いまならまだ間に合う。今だったらまだ、許してくれるはず、大島莉乃はそういう子だ。
「あの、莉乃ちゃん。」
彼女がはいと言って振り向く。
「実は・・・・・」
プルルルルルル!
キッチンの電話が鳴った、フロントからのお呼びだ。多分、有紗だ
「もしもし」
「莉乃ちゃんに受付の仕方教えるからフロントに連れてきてよ。」
「はいはーい。」
電話を切ると莉乃ちゃんがうかがうように俺の方見ていた。完全に謝るタイミングがなくなってしまった。
「フロント行こうか。」
「はい!」
柔らかいアルトで返事をしてくる彼女はアイドルの時の天真爛漫な性格は変わってなかった。その日はフロントに戻り受付の流れを俺と有紗で一から教えた。彼女は飲み込みが早く有紗が関心するほどだった。
その日は家に帰らず本屋に寄った。着くや否や店員に村上夏樹の本の場所を聞き案内してもらった。村上夏樹のコーナーに着くと俺は目を見開いた。
「おいおい、まじかよ。こんなにあんのかよ。」
横並びにズラリと置いてありどれを買えば良いかわからなかった。俺はカウンターに戻ろうとする店員をすかさず呼び止め新作の作品を聞いた。店員はやや面倒くさそうに答えた。
「こちらの「騎士団長殺し」が先月入荷した作品になります。」
「それ買います!」
有無を言わさず答えた。税込み1944円。フリーターにはなかなかの出費だ。だけど、迷っている暇はなかった。その晩から翌日にかけて俺は半ば徹夜状態で久々の小説を読んだ。こんな、一生懸命になったのはずいぶんと久しぶりだ。そして、迎えた当日。平日もあって俺はバイトも半ば眠りながらこなした。たまに莉乃ちゃんが心配そうな顔や声をかけてくるがそこは男の意地で平気なふりをした。そしてバイト終了。
大部屋の一人カラオケはなかなか癖になる。従業員は無料というカラオケ店員にしか味わう事の出来ない唯一の特権だ。最初聞いたとき一人カラオケって思ったけどこれが結構ハマってしまった。今ではバイト終わりは必ず歌っている。だけど、今日はいつもと違う。俺の横には大島莉乃がいる。俺が一人カラオケの話をすると私も付き合いたいといいだしてきた。夢にまで見たシチュエーションだ。彼女は俺の好きな虹クロの歌を歌ってくれた。アイドルのはずの彼女が素人として彼女の歌を歌っている。その光景はとても新鮮だった反面なんだか妙な光景だった。歌い終わってジョッキに注がれたウーロン茶に手をかけた。小さな体とは不釣り合いのバストはティシャツ一枚のため余計に協調されていたりショートパンツからでてるスラリと伸びた足は彫刻で作られたものの様だった。そして、両手を使って飲む姿はまるでウーロン茶のコマーシャルの様だった。
「逢澤さん、嘘ついていますよね。」
え?ふいに彼女が聞いてきた。
「本当は小説とか読まないんじゃないんですか?」
「・・どうしてそう思うの?」
「だって、私に話ししているときすごくキョロキョロしていたから。なんか、後ろめたいことがあるのかなぁと思って」
芝居がへただな俺は。
「ごめん。本当は小説とかここ10年読んでない。」
「やっぱり。でも私の為に一晩で読んでくれてありがとうございます。うれしいです。」
彼女はニコッと笑って呟いた。なんて愛くるしいんだろう。
「じゃあ、握手会も小説家じゃないんですよね?」
「ごめん。」
「やっぱり。本当はアイドルの握手会じゃないんですか?」
上目づかいでニヤニヤしながら聞いてくる。
「うん。正解。」
「もしかして虹クロ48ですか?」
「え!どうしてわかったの。」
「やっぱり、だって今の若い男の人はみんな好きですもん。かわいいですもんね。ちなみに誰押しですか?」
「おおし・・・じゃなくて渡辺みなみ。」
「あ~、みなみんね。すごく可愛いですもんね。」
そう言うと彼女は急にうつむきだし神妙は面持になった。
「どうしたの?」
「実は私、過去に虹クロのオーディション受けたことがあるんです。」
「っ!」
「一次審査は受かったんですけど二次審査の歌唱審査であっさり落とされました。私、歌あまり上手くないんですよ。」
そうなんだ。これも俺が入力したとおりになっている。そうだった、この世界では大島莉乃はオーディションに落ちているということになっているんだった。完全に忘れていた。それに、確かに大島莉乃の歌は上手くはなかった。
「そうなんだ、でもどうしてアイドルになりたかったの?」
この話はアイドルの時の彼女からもテレビで聞いたことはなかった。多分、ファンのみんなはどういう経緯で彼女がアイドルを目指したか知らないだろう。
「話せば長くなるんですけどいいんですか?」
「いいよ。全然。」
「おじいちゃんの為に受けました。」
「おじいちゃん?」
「私がオーディション受ける一年前におじぃちゃんがアルツハイマーを患ったんです。」
「アルツハイマー?」
テレビで聞いたことある。確か記憶がなくなる病気のはず。
「そうです、多分イメージでは記憶が無くなっていく病気と思っている方が多いと思います。でも、それだけではないんです。段階としてアルツハイマー第一期として倦怠期から始まるんです。道に迷ったり多動、徘徊などの症状が見られるんです。もともと、おじいちゃんは物忘れが多かったんですけど私が小学6年生に上がるころにはますますひどくなって同じことを何度も言ったり、聞いたりしたり、以前から何回も通った道に迷ったりするようになったんです。それで、おかしいと思ったお母さんが病院に連れて行ったらアルツハイマーと診断されました。今、思えばあれが倦怠期だったんだなて思います。でも、病院に連れて行くのが少し遅かったみたいでした。入院して1年後には混乱期に迎えました。これは初期の症状が一層深刻化して会話が困難になる症状です。高度の知的障害で失語、失行、失認が主な症状です。」
「失行?失認?」
聞きなれない言葉に思わず口から出た。
「簡単に言うと失行は服の着方は知っているのに着ることができないことです。失認は目では見えているのに見えていると認識が出来ないことです。それでも、私やお母さんの顔や名前は覚えてくれていました。でも、それから、1年後に臥床期とよばれる寝たきりの状態になりました。身の回りのことができなくなるので生活全般において介護が必要になります。その状態が今も続いています。
「いつか、お母さんが私の部屋に入ってきておじいちゃんとおばあちゃんのなれ初めを聞いたことがあるんです。実はおばあちゃん昔、売れない歌手だったんです。それでも、おじいちゃんはおばぁちゃんのファンでずっと追っかけをしていたんです。昔は今みたいに握手会とかなかったからファンレターが唯一、芸能人に自分の思いを伝えるすべだったんです。おじいちゃんは毎週おばあちゃんにファンレターを送っていたらしいです。そんなある日、おばあちゃんから返事がきたんです。「いつも、ありがとうございます。楽しく拝見させてもらっています。あなたのように応援して下さるかたが居て私はとても幸せです。これからも応援お願いします。」て書いてあったんです。それを、見たおじいちゃんはすごく喜んでいたそうです。でも、後から聞いた話では返事を書いていたのはマネージャーさんだったらしいです。しかも、送ってきた全員に返していたんです。」
そう言うと彼女はクスっと笑った。
「でも、おじいちゃんは自分だけに返ってきたと思ったらしくてみんなに自慢していたらしいです。その後も、ずっと手紙を送り続けたらしいです。それでおじいちゃんに転機が訪れたのはそれから3年後です。また、おばあちゃんから返事が来たんです。「どうして、そこまで私のことを応援してくださるのですか。今の私は世間から忘れられた歌手です。何を歌っても私の声はみなさまの心に響かなくなりました。ですが、あなただけが応援してくれました。あなたに会いたいです。」という返事が来たんです。実はその頃のおばあちゃんはヒット曲に恵まれず歌手としてもいよいよ崖っぷちだったらしいんです。そんな中、毎週おじいちゃんからくる手紙がすごくうれしかったんだと思います。三年間も手紙を送り続けたおじいちゃんもすごいですよね。それでおじいちゃんは手紙に書いてあった電話番号に電話して連絡を取り合うようになったんです。」
「そんな話本当にあるんだな。」
「そうなんです。それでここからが私がアイドルになりたかった理由なんですけど、おばあちゃんは10年前に他界したんです。おじいちゃんは葬式の時棺の中で眠っているおばあちゃんに向かって「もう一度、きみの歌っている姿が見たかった。」て言っていました。それをお母さんが聞いていて私に話してくれました。その時、私思ったんです。私が歌手になっておじいちゃんにその姿を見せればあの頃の気持を思い出してくれるんじゃないかって思ったんです。これが私がアイドルを目指していた理由です。」
話し終わった後、彼女はうつむいていた。もしかしたら、泣いているかもしれない。最後の方は、言葉になっていなかった。
知らなかった。彼女がアイドルに対してこんな思いがあったなんて。きっと、この事実は後にも先にも俺しか知らない事実だろう。なんだか、俺は自分が恥ずかしくなった。自分じゃない誰かの為にこんなに一生懸命になっている彼女がいるのに俺は一体、何をやっているんだ。
「納得しました?」
顔を上げて彼女が聞いてきた。
「うん、でも残念だね。もう、アイドルは目指さないの?」
「まだ、あきらめてないんですけど。自分でもわからないんですけど。なんだか引き寄せられるように熊本に来ちゃったんです。本当に不思議ですよね。」
これは経歴変換スイッチを使ったから無理に彼女をそういう経歴にするようになっているんだ。
「親からは何も言われなかったの?」
「お母さんからは反対されました。おじいちゃんにも会えなくなるからです。でも、最後は心機一転の為に行きなさいてオッケーもらったんです。これまた不思議ですよね。」
そういう感じで帳尻が合せられているんだな。
「お父さんは?」
「お父さんは私が幼稚園のころに殺されました。」
「えっ・・・・・」
「犯人まだ、捕まってないんです。」
一気に重い空気が漂う。そんな事、聞いたことない。お父さんは建設作業員をしているとテレビで確か言ったはず。
「ごめんなさい。変な空気になっちゃって。」
「いや、こっちこそごめん。」
「なんだか、逢澤さんに話して少しスッキリしました。ありがとうございます。」
「あのさー今度、映画でも見に行かない?」
この状況を打破するためにはこれしか思いつかなかった。
「いいんですか?」
「うん。たまにはリフレッシュしないとストレス溜まっちゃうからね。特に店長には。」
そうですね。と彼女は笑って答えてくれた。その後は俺の決して上手いとは思えない歌を彼女は楽しそうに聞いてくれた。彼女も決して歌は上手ではなかった。まぁ、前々から知っていたけど。低い採点結果を見るたびにお互い笑い合った。こんな日々が毎日続けばいいのにと思った。だけど、そう思う度に自分の中で葛藤が芽生え始めた。