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恭介より

 目を開けると保健室だった。


 首が痛い。


「あ、篠村先輩、大丈夫ですか?」


 一人の少女がベッドの隣のパイプ椅子に腰かけていて、笑顔を俺に向けてくれる。


 水無月水萌。


 学校一どんくさいと言われている少女だ。


「俺、どうしたんだ?」


 すると、さっきまで笑顔だった水無月は急に落ち込んだような表情を浮かべ、少し縮こまった。


「やっぱり、無理に聞くべきじゃなかったですね」


 俺が眉を潜めると。


「殺人蜘蛛のことです」


 そうか、水無月が俺の教室まで来て、邪魔が入らないように校舎裏まで行って、そこでそんな話を切り出されたんだった。


 でもなんだかその辺の記憶が曖昧だ。


「思い出したくないですよね。気を失っちゃうくらいですから」


 水無月の話から推測すると、俺は殺人現場のことを話しているうちに気絶してしまったということだ。


 なんて情けない。


 しかも女の子の前でなんて余計に恥ずかしいじゃないか。


 水無月からの株は下がったな……。


 俺は深い深いため息をついて項垂れる。


「まだ具合悪いですか?」


 心配そうに水無月は俺の顔を覗き込んだ。


「……ん?」


 なんだか首に違和感がある。


 手を首に当ててみると。


「あっ、触っちゃ駄目ですよ!」


 水無月が勢いよく制止してきた。


「倒れたときに首からいってたんで、念のため包帯を巻いてあるんです。まだ取っちゃ駄目です」


「あ、ああ……」


 でもこういうのはどうもむず痒くて仕方ない。水無月が居なくなったら取るか。


「…………」


 水無月がじっと俺を見つめていた。その瞳からは疑いの色が伺える。


「……な、なんだ?」


「私が居なくなったら取ろうとか考えてないですか?」


「ぐっ……」


 バレていた。


「せめて、二、三日はそのままの方がいいです……って、先生が言ってました」


 それは辛いなぁ。


「そうか…」


 そういえば、喉乾いたなぁ。


「なにか飲みますか?」


 水無月がそう訪ねてくる。ちょうどほしいと思っていたところだ。


「ありがとう。頼むよ」


 水無月は席から立ち上がり、しばらくして綺麗なカップに入った紅茶をトレイに乗せて運んできた。


「紅茶?」


「棚にあるものを拝借しました」


 ペロリと舌を出して悪戯な笑顔を見せる水無月。


 その仕草に一瞬ときめいたことは伏せておく。


「先生が戻ってこないうちにさっと飲んでください」


「ああ」


 俺は紅茶をとるためトレイに手を伸ばした。そしてあることに気付く。


 トレイには三つの紅茶が乗っていた。


 ひとつは俺の、ひとつは水無月のものだとして、もうひとつは誰のものだろう。先生の……、ということはないはずだ。先生は今居ない。第一水無月は「先生が戻ってこないうちに……」と言った。これが先生のためのものであるはずがない。


「あっ」


 俺が戸惑っているのを見て、水無月も気が付いたらしい。


「三つも淹れちゃいました。……うぅ、またどんくさいって言われちゃう……」


 トレイはちゃんと持ったまま水無月は顔を伏せる。


「はは、気にすることないって」


 俺はカップをとった。


「あ、ちゃんと淹れられてるかわからないですけど」


 カップに口をつけ傾ける。中の紅茶がゆっくりと俺の口の中に入ってきた。


「……うん、おいしいよ」


「そ、そうですか?」


 野花みたいな素朴な笑顔をぱぁっと咲かせ水無月は嬉しそうに顔をあげる。


 正直紅茶の味なんか分からない。でもこうして水無月が淹れてくれたものだ。美味しくないはずがない。


「ありがとう」


 俺は感謝の言葉を送る。


「どういたしまして!」


 水無月はトレイを持って立ち上がる。


「あー、と、とりあえず、もう一個は流してきますね」


「いいよ。俺が飲むから」


「で、でも……」


「一杯じゃ足らないからな」


 俺がそう言うと水無月はクスッと笑ってトレイをベッドの横の小さな机に置いた。


「じゃあおねがいします」


「おう」


 水無月は椅子に座り、紅茶の入ったカップを手に取る。そしてそれには口をつけず、自分の膝の上に置くようにして持っていた。


 そして神妙な面持ちで口を開く。


「……先輩、話を蒸し返すようで悪いんですけど……」


 彼女が何を言わんとしているのかは分かる。


「殺人蜘蛛のことか?」


 水無月は静かに頷いた。


「……その、実を言うとだな」


 食い入るように水無月は俺を見る。


「何も覚えちゃいないんだ」


「…………え?」


「思わせ振りなこと言ったけど、覚えてないんだよ。一時的な記憶障害だと言われたんだ。多分、ショックが大きかったんだろ。あの時はそれが恥ずかしくてなんとか誤魔化そうとしてたんだ。まぁ、すでに恥ずかしい場面を見られた後の今なら別にな」


 思い出そうとしただけで気を失ったあんな場面を見られたあとだからな。


「……そう、……なんですか」


 あからさまに残念そうに水無月は声を落とした。


 彼女には悪いがそれが真実だ。


「だが、俺はこれでいいと思ってる。忘れた方がいい記憶もあるだろうよ。それに、水無月を危険な目に遭わせたくないって気持ちも事実だしな。……すまない」


 俺は頭を下げる。


「い、いえ! 私が無理を言ってるのは分かってますから。先輩は気にしないでください!」


 両手を振りながら水無月は言う。


 だが、水無月の落ち込んだ様子は変わらない。


「どうしてそんなに殺人蜘蛛に会いたいんだ?」


「…………」


 水無月は黙っている。


「言いたくないのは分かるが――」


「大切なものを守るためです」


「え?」


 返ってこないと思っていた返事が返ってきて俺は戸惑った。


「殺人蜘蛛がいる限り、私の大切なものが常に危険に晒される。それが怖いんです。大切なものを失うのが……、怖いんです」


 しかも予想以上に重たい内容。


 俺は入ってはいけない領域に足を踏み入れたのかもしれない。


「大切なものか……」


 相手は『殺人蜘蛛』だ。


 水無月には大切な『殺されたくない人』がいるのだろう。


 それを聞いて俺は少し残念に思った。


「そうだな。俺も大切なものを失うのは怖い。……でもなんだ。水無月を責める訳じゃないんだが。水無月がそれほど大切にしているものなら、それもきっと水無月を大切に思っている。それだけは忘れないでくれ」


 水無月は驚いたような表情を浮かべていた。


 そしてそれはしばらくして優しそうな笑顔に変わる。どこかに寂しさを孕んだような、そんな悲しげな笑顔。


「……そんなこと、考えたこともありませんでした」


 ぽつりぽつりと呟くようにして水無月は話す。


「一方通行じゃないんだ。この気持ちは……」


 水無月は両手を胸の前でキュッと握る。


「先輩はすごいですね。私が分からないようなことを知ってる」


「お、俺はただ一般論を……」


「いえ。先輩はすごいんです。少しだけ、私の気持ちが変わりました。ヒトの気持ちを変えられるってすごいことです」


「な、なんだ? 誉めたって何も出ないぞ?」


 恥ずかしくて浮わついたような気持ちが、俺を挙動不審にする。


「…あ」


 水無月が急に俺の首に触れる。


「……っ!?」


「あ、痛かったですか? 包帯がずれてたので」


「い、いや。ちょっと吃驚しただけだ」


「これで大丈夫です」


 水無月は全く口にしていない紅茶を机に置く。


「それじゃあ先輩、私急用を思い出したのでこれで失礼します。すみませんが、紅茶のカップは片付けておいてください。棚の上から二番目の場所です。場所が違ったら先生にばれちゃいますよ」


「あ、ああ、わかった……」


 水無月は小走りで保健室の出口までいくと振り返り。


「先輩、ありがとうございました」


 そう言って水無月は出ていった。


「…………」


 俺はしばらく呆然とベッドに座っていた。


 水無月が俺の首に触れた瞬間、どうしてかねっとりとした気持ち悪い汗が吹き出し、身体中の筋肉が石みたいに固まって動かなくなった。なぜかは分からない。だけどはっきりと分かったことがある。


 あれは。


 あの気持ちは。






 『恐怖』






 首をへし折られてしまうような、そんな悪い予感。


 あの水無月が?


 学校一どんくさいと言われ、華奢な体躯のあの水無月が俺の首をへし折る?


「馬鹿な……」


 俺は自分に言い聞かすように呟き首を横に振る。


 首が痛かった。


 痛かったが、それはさっきまで思っていたものと少し違う。


 内から来るものじゃない。


 もっと表面的な痛み。


「……っと、先生が来る前に片付けないと」


 俺は紅茶の乗ったトレイを持ち、保健室内にある小さな流し台まで運んだ。


「……ん?」


 そしてまたもおかしなことに気付く。


 三つあったカップのうち、空のカップが二つ。


 ひとつは俺が飲んだ。ひとつは水無月が飲まずに置いた。もうひとつは紅茶が入ったまま残っているはずである。


「……二杯目、飲んだっけな」


 俺もしどろもどろしていたところがあるから記憶が曖昧だ。


 まぁ、とりあえずは片付けてから考えるか。


 洗ったカップを棚に戻し、ベッドに帰る。


 その途中、流し台の前の小さな鏡にふと目をやる。


 そこには首を大袈裟に包帯で巻いた俺の姿が写っていた。しかもその包帯はなんとも下手くそに巻かれているではないか。これじゃ包帯を巻く意味がない。


 自分の首の包帯に触れ、俺はふと手を止めた。


『まだ取っちゃ駄目です』


 そんな水無月の言葉が甦る。


「……まぁ、巻き直すんだからいいだろ」


 自分の行為を正当化させる言葉を呟き、俺は包帯を解いた。


 するするすると下に溜まっていく包帯。いったいどれだけ巻いてあるんだと苦笑いしていた俺の顔は、包帯を解ききった後、青ざめることとなった。


「なん……、だ……これ」


 鏡に近づき穴が開くほどにそこに写った自分の姿を見つめる。


 「ナルシストか!」なんてツッコミを入れられたらどれだけ幸せだったろう。


 俺の首。


 そこにくっきりとつけられた手形と爪の痕。


「ぐっ……」


 頭の中にノイズと共に浮かび上がる情景。誰かが俺の首を締め上げている光景。


 誰だ?


 ……いや、なんだこいつは?





















 なんだこのバケモノは!





















「っくそ!」


  どうして、どうしてはっきりと思い出せない!?


 何が起きたんだ?!


 何があったんだ?!


「ぐあぁぁっ!!」


 ちくしょう!


 くそったれ!


 なぜっ!


 思い出せない!


「なぜなんだあぁぁぁぁぁぁっ!!」

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