キリ
「あ……」
いつの間にかあの少女がベッドの傍に立っていた。
「そんなに怯えなくていい。キリングエッジはヒトを殺さない」
私を殺したあのナイフを私に突き付ける。
「でもヒト以外は殺せる。けれどあなたは死ななかった。けれどあなたからはバケモノの臭いがする。あなたは何者?」
問いかけてくる少女。
表情や仕草から何一つ伝わってこない。
感情というものがあるのかと疑いたくなる、鉄のような無機質な言葉。
「う……、あぁ……」
思うことはいくつもあった。
だけど怖くてまともに声が出ない。
「その怯え様、あのときとは明らかに違う。あのときのあなたは怯えすらなかった。まるで他人事のように今を外から見ていた。この短期間に何があったの? ……それとも、あのときのあなたとは別人? いや、そもそも消えてないことからしておかしい。ヒトの心からも消せていない」
あれこれ捲し立てるように少女は言うが、私は何一つ答えることができない。
当然だ。
何一つ理解できていないのだから。
「……キリングエッジが機能しなかった?」
少女は私に突きつけていたナイフを引き、品定めするようにじっくりと見回している。
「いや、そんなことはない。キリングエッジは嘘をつかない」
そのナイフに人格があるかのように少女は言う。
「キリングエッジはバケモノを消し去る唯一の武器。一突きすれば有無を言わさず消し去る絶対の刃」
少女はナイフを懐にしまった。
「キリングエッジがあなたを消さなかった。それには意味があるはず。見る限り、あなたはヒトを襲ったりはしていない。でもあなたの疑いが晴れたわけじゃない。このままにしておくのは危険。だから私はあなたを監視し、行動を共にする。あなたの一件にケリがつくまで」
「あ……」
「なに」
声を絞り出す。
「あなたは、誰?」
ようやく出た言葉はそれだった。
「固有名詞のことを言っているなら困る。そういったものは私には無い。ある意味がないから。だが、強いて言うなら、バケモノを消すための存在。それ以上でも以下でもない」
「でも……」
「あなたと仲良くするつもりもない」
「………」
少し、寂しい。
「……どうしてそんな顔をするの? 私はあなたを消そうとした。そんな感情が表に出てくるとは思えない」
そうだ。
この子は私を殺そうとした。
だけど話しを聞いているうちに、「そうじゃない」という気がしてきたのだ。
「わからないけど、あなたは悪いヒトじゃないと思ったから」
「ヒト、か……」
珍しく少女に感情というものが見えた気がした。
「ひどく昔に同じようなことを言われた気がする。…もう憶えてはいないけど」
表れたそれはヒトが持つもののように複雑で、表現し難いもののようだった。
「あのときは確か、……『キリ』。そう呼ばれていた気がする」
「キリ、…さん?」
「キリ、だ。敬称なんかいらない」
「私は水無月水萌。水萌でいいよ」
少女に対する恐怖はいつの間にか消えていた。
「ミナモ……、分かった」
「よろしく。キリ」
私は手を差し出す。
「仲良くするつもりはないと言った」
「………」
「………」
「………」
「……だからそんな顔をしないで。私が悪者みたいになる」
キリは私の手を握ってくれた。
ひんやりとした手だった。
「ミナモと居ると調子が狂う」
困ったようにキリは言った。
キリの感情。
私がそんなものを感じ始めたとき、保健室の戸が勢いよく開いた。
「みーなーもー! 部活終わったよ」
保健室の時計を見てみるともう六時前だった。
そんなに時間が経っていたのかと驚いていると、冴子が私の膝の上に鞄と制服を置く。
私のやつだ。
「ありがと」
「いいっていいって」
冴子はヘラヘラ笑いながら手を振ると、先生の座る椅子を引っ張ってきてそこに座った。
「あ、そうだ冴子。この子……」
キリを紹介しようと思ったのだが、彼女の姿は忽然と消えていた。
「ん? なに?」
「うん、冴子が部活に行った後、違う子が来て話してたんだけど」
冴子は辺りを一通り見回す。
「誰も居ないじゃん?」
「…さっきまで居たんだけどなぁ」
「幽霊とか?」
「や、やめてよ……、そんなんじゃないから……。多分……」
確かに突然現れたり突然居なくなったり、変なところはあるけれど、幽霊なんかじゃない。だってさっき握手したばかりなんだから。キリの手にはちゃんと触れられたし、冷たかったけど温もりもあった。それが幽霊じゃない証拠だ。
「あはは、冗談よ冗談。ほんと水萌はからかいがいがあるわぁ!」
「私は真剣なんだよ?」
「ごめんごめん。でも水萌はぼーっとしてることもあるし、その間にどっか行っちゃったんじゃない?」
「うーん、そうかなぁ」
キリと握手してから冴子が来るまでほとんど時間はなかったと思うんだけどなぁ。でも時計もいつの間にか進んでたし、私がぼーっとしてたってのも否定できないし。
「じゃあ、また機会があったらその子紹介してよ」
「う、うん…」
「そんじゃ帰ろう? 暗くなっちゃうし。ほら、可愛い女の子が二人、そんな時間に歩いてたら危ないでしょ?」
「ははは、そうだね」
◇
それから一週間。
私はキリと出会わなかった。
でも分かったことがある。
それは私の身体能力が向上していること。
走力は知っての通り、腕力、脚力、握力、聴力、視力、その他諸々。
意識していれば以前通りの力を出すことはできるが、無意識のうちにすることはどうも制御が利かないらしく、スプーンを握り潰してしまったときは正直焦った。なんせ好物のカレーが食べられなかったのだから。
「はぁ…、どうなってるんだろ、これ……」
フェンスにもたれ掛かり、誰かに問うわけでもなく呟く。
放課後、私はまた屋上へ来ていた。
私の作った血溜まりは、もうくすんでしまって、ただのシミになっていた。
変なことがあった場所だが、考え事をするならこの場所が一番なんだ。
誰にも邪魔されない静かな場所。
それがこの場所……。
の、はずなんだけど。
「ミナモはヒトみたい」
「キリ…? 今までどこに居たの?」
「私はずっとミナモを見てる。この一週間は特に問題もなく……」
「そういうこと聞いてるんじゃないんだけど」
キリは目を閉じる。
「私はバケモノを消すための存在。だから実体が無い。存在だけの存在」
私は首を傾げる。
「ヒトの世界は存在感を放つものが多すぎる。この学校以外での私の存在の優先度は低いから、私はすぐに霞んでしまう」
「でも学校にいる間も見なかったけど?」
「あの子……、サエコの存在感が強すぎる。ミナモの傍にあの子が居るから私はほとんど見えなくなる。でもここは、閑散としてて寂しい場所。だから私も見えやすい。それだけのこと。でも見えないだけで私はちゃんとそこに居るの」
見えないものに監視されている、というのはあまりいい気はしない。けれど、キリが見えている今ならチャンスだ。
「質問、いい?」
「私が答えられる範囲なら」
「バケモノって何?」
今のうちに気になることは聞いておこうと思った。
「バケモノは突然に発生するイレギュラー。イレギュラーを処理しなくてはやがて周囲を侵食し、悪影響を及ぼす。それはイレギュラーがヒトを襲うという形で表れる」
「………、どうしてそんなものが出てくるの?」
「イレギュラーを発生させる存在が居る。それが大本になったイレギュラー。それが自分と同じようなイレギュラーを作り、野に放ち、そして学習している。イレギュラーをイレギュラーと認めさせないようにするために。私の最終的な目的は、その根元にあるイレギュラーをこのキリングエッジで処理すること」
「そのナイフがキリングエッジ?」
キリが頷く。
「キリングエッジはイレギュラーを処理、消し去るための唯一の道具。だけどキリングエッジも所詮は道具。在るだけでは意味がない。使ってくれる者が必要になる。それが私」
「私がそのナイフに刺されたけど消えてないのはどうして?」
「……分からない」
そんな無責任な。
「ミナモは確かにバケモノのはず。だけどキリングエッジはあなたを消さなかった。キリングエッジはヒトを殺さない。ということはミナモはヒトであるはず。でもそれでは矛盾する」
「私がバケモノだってどうやって判断してるの?」
「見れば分かる。ミナモは他のヒトとは明らかに違う」
多分キリが言っているのは個体の差のことではないだろう。全く同じ人間なんて居ないから。彼女の言う違いは、世間一般のヒトと呼ばれている生き物と違うという意味なのだろう。
だけど、私は他人との違いを感じたことはないし、違うとも思ったことはない。そりゃこの身体能力の向上を受けては流石に考えたけど。
「けれど、ミナモがもし、イレギュラーの辿り着いた新たな結果だとしたら、これは非常に良くない傾向。キリングエッジが機能しないんだから」
「それって、イレギュラーを消せないってこと?」
キリは静かに頷いた。
「でもそれは可能性の話。イレギュラーは周囲に害を及ぼす前に消さなければならない」
「だけど、私は襲ったりなんて……」
「襲わないと言い切れる?」
「襲わないよ」
「………」
キリは再び目を閉じ、ナイフを強く握った。
そして数秒後、目を開いて深くため息を吐く。
「少し付き合って。その後で同じことが言えたら、ミナモはホンモノだわ」
キリは重々しく一歩を踏み出した。その後ろを私はいつも通りの歩調でついていく。
この一歩を踏み出した時点で、私の今後の運命の方向が決まったのかもしれない。