月の下・後編
また区切るところが良くなかった(´・ω・`)
後日修正します。
20150131修正
「ミナ……!」
キリはなにかを言いかけて、その続きの言葉を、躊躇うように飲み込んだ。
「冴子を返して」
私はイレギュラーに言い放つ。
「……あなた、さっきの?」
イレギュラーは驚きと、喜びが混じったような顔だった。
「くくっ……、あっははははは! ついに本性を表したってことね!」
どうも私の姿が面白いらしい。
それもそうか。
だって私はキリや、イレギュラーを見上げるようにして立っているんだから。
「ソレがあなた本来の姿ね! いえ、もとだった姿かしら?!」
「面白い? あなただって、もとは私なんかよりずっと小さいでしょ?」
「そうね。そうよねぇ。でも今は違うわ。あなたを握りつぶすのも、踏み潰すのも簡単そう」
イレギュラーは実に愉快そうだ。
キリの攻撃で自分は消えることはないし、私ごときの加勢で負けるはずがないとたかを括っている。
「ミナモ、なのね……」
「うん。……がっかりした?」
「いいえ。ミナモらしいわ」
キリは笑ってくれた。
イレギュラーの私に。
「ふん、あなたが増えたくらいでどうこうできないわよ!」
そう。
何もできない。
けれど、それは、私が『ヒトの形』をしていたときの話だ。
「ミナモ、なにか策でもあるの?」
「あるよ」
イレギュラーの表情が強張る。
「ど、どうせはったりでしょ」
「あなたはイレギュラー。私もイレギュラー。答えは簡単だよね?」
イレギュラーは頬を引き釣らせる。
「ま、まさか……」
「答えは合ってるかな?」
私はイレギュラーのもとへ走る。四本足で。これが一番しっくりくる。きっと今までで一番早く走ってる。
「来るな! 来るな来るな来るな来るな!」
足の攻撃。
そんな大きな動作で私を捉えることはできない。
「来るなあぁぁぁぁぁっ!!」
白い糸が飛んでくる。
キリが捕まったときに二度も見た。かわすことは簡単だ。
タンッ、タンッ、タンッと軽快に、だけど確実に、イレギュラーとの間を詰めていく。
そして最期の大きな踏み切り。
イレギュラーに、冴子の身体に飛び込んだ。
ぬるっとした生暖かい液体の中にいるみたい。だけど呼吸はできる。
辺りはオレンジ色の光で溢れていた。
今、自分はどこを向いているんだろう。上も下も右も左も分からない。
辺りには多くの浮遊物。
椅子だったり、鉛筆だったり、写真だったり、服だったり、キーホルダーだったり、建物だったり。大きさもまちまちで、どれも正しい大きさではないようだ。
不思議な空間。
すごく暖かい場所。
「…………」
だけどそこに、酷く澱んだ場所がある。
巨大で、紫色で、渦を巻いていて、そこから四方八方に無数の糸が飛び出し、まるで癌のように周囲の物に張り付いていた。
それはさながら糸繭。
これが彼女を蝕んでいる原因。
だけど、どうやってそこに向かえばいいんだろう。
……ああ、待って。
そもそもここはどこ?
私は誰?
彼女って、だれ?
曖昧なまま、消化されるように、溶けるように、意識が、身体が……。
「からだ?」
なにもない。
わたしはどうやってしゅういをみているの?
あれは、むらさきいろのあれは。
『あっははは。ばぁかねぇ? 殻を作らないで来るなんて! このままあの子の意思に溶けてしまえ!』
「あのこ? いし?」
だれがはなしてるの?
わからない。
だけどこの。
ふつふつとわきあがる。
憎しみ。
この声は嫌い。
大嫌い。
――コツン……
と、なにかがわたしにあたった。
それは。
「しゃしん」
おんなのこがさんにんうつってる。へんなきーほるだーをもっている。
ひとりはしってるこ。
もうひとりもしってるこ。
だけどもうひとりはだれ?
黒く肩まで伸びた髪の毛。
気の弱そうな瞳。
少しぎこちなく、だけど楽しそうに笑っている、ちょっと頼りない感じの女の子。
しゃしんがながれていく。
うらがみえた。
『私と水萌と、……あと加奈でケロどーへ』
みなも。
「みなも」
ああ。
懐かしい。
「水萌」
そうだ。
私は。
「水無月水萌」
そう、思い出した瞬間。
自分の腕が見えた。
『ヒト』の腕と同じ『形』。
身体ぜんぶ。
水無月水萌という『ヒト』だった私の『形』。
もう戻ることはないと思ってた。
ううん。
多分それはここだけの奇跡。
「殺人蜘蛛……」
澱んだ紫の渦を見る。あれだけ巨大だったそれは、今や片手で掴めるほどの大きさしかなかった。
きっとあれは、私が小さかっただけ。これよりも遥かに弱々しかっただけ。
「ここはあなたの場所じゃない。冴子の、冴子だけの場所」
渦をギュッと掴む。
『や、やめっ!!』
潰さない程度に。
「出て行けッ!!」
そう叫んで手を握ると、糸繭はフッと消え去った。
ポテンと小さな玉のようなものが目の前に落ちた。
「キリ! それを消して!」
私は冴子の口を使って叫んだ。
「サエコ……、ミナモ?」
「早く! これがイレギュラーの本体だよ!」
落ちた玉は丸まった体長2cmほどの小さな蜘蛛だった。
蜘蛛は七本の足でサカサカと動き出した。それは真っ直ぐに、裏山が崩れたその場所へ走っていく。
私がなんとか動きを止めたかったが、冴子の身体は思うように動かない。
でも、それでいい。
冴子の身体を私が支配しきってはいけない。冴子に身体を返せなくなる。
キリがナイフを握り跳ぶ。
そのとき、小さく風が吹いた。
それと同時に蜘蛛は糸を出し、風に乗るようにして飛んでいった。
ふわりと。
そしてそれは……。
「くそっ!」
キリがナイフを投げ飛ばす。
けれど標的が小さすぎる。
イレギュラーが私を狙ったときと同じ。
当たるはずがない。
ナイフは壁に刺さり、そして消えた。
「くくくっ……、あっははははは!」
爆発のような轟音が鳴り響き、また、あの嫌な声が聞こえてきた。
「ばぁか。ほんとぉに、ばぁかねぇ!!」
修復された壁が崩れた。
いや、裏山がまた崩れて壁を壊したのだ。
崩れたその土砂の中から、一人の女が現れた。
長い長い白髪で、斑模様の服を着た、長身の女。
綺麗。
正直にそう思った。
男ならきっと誰もが振り返るような美人。
「次……」
思わず私は呟いた。
「さっさと潰してればよかったのよ。あなたが、その子の身体を支配してねぇ」
「私は、あなたと違う」
「私も『次』、あなたも『次』、違わないわ。今はむしろ私の方が上。あなたは借り物の身体、私は私の身体! 『ヒト』よ! ついに私はなれたの! 『ヒト』に!」
両手を掲げ高らかに笑う女。
「そうだね。よかったね」
私は女にそう言葉を送った。
「え? なに? どういうこと?」
私の反応に拍子抜けしたのか、女は間の抜けた顔で私を見ていた。
私は冴子の身体から出る。
冴子はコテンと地面に伏した。
しばらくすれば、彼女自信の意識が戻ってくるはずだ。
「殺人蜘蛛、私はあなたが許せない」
「……ミナモ! そっちに近づいたら!!」
キリが私を抱えあげ引き留めた。けれど私はその腕から逃れるようにして飛び出し、再び殺人蜘蛛へ向かって歩いていく。
「許せない? どうするって言うのよ! キリングエッジで私は消せない。あなたみたいな小さな存在にやられるわけもない!」
「ふふ……」
思わず笑いが込み上げてきた。
「な、なにがおかしいのよ!」
「あなたが言ったんだよ? 『ヒト』のままで勝てると思う? って」
「なっ!」
分かる。
怯えてるその姿。
『ヒト』は『バケモノ』を恐れる。
あなたは十分に『ヒト』になった。
だから私には勝てない。
「―――?」
視界が高くなる。
きっと、アレに近づいたせいで、イレギュラーに変わって……。……ううん、戻っていくんだ。
「――――『――』―――――――――?」
揺らめくような、揺れ動くような、何かに背中を押されるような、ひどく懐かしくて不安な気持ち。
懐かしいわけだ。
私は戻ろうとしていたんだ。
あのときから。
それがなにか解らなかったから不安だった。
「バ、バケモノ!!」
「―――――!!」
女がそう言うものだから、思わず笑ってしまった。
バケモノ。
だけど今言われても別に不快じゃない。むしろ清々しいと言ってもいい。
自分の手を見る。
長くて鋭い爪が生えていた。恐ろしい凶器だ。多分、包丁を使わなくても肉料理ができる。
「ミナモ、駄目!」
キリ。
今ならキリングエッジで私を消せるはずだよ。
「だけど待ってね。こいつを殺すまで」
「何を言ってるの?! 言葉が、分からない!」
あぁ、そうだっけ。
でも、もう、いいや。
私は女に向かって走った。
凶器となった腕を振りかぶり、目の前の、憎たらしい女を殺してやるために。後悔するがいいヒトを襲ったことを私の大切なものに悪さしたことをその怯えきった表情をとてつもなく甘味な苦しみの色で満たしてやるあなたが次に覚えるのは絶望でいいでしょ?
「やめてミナモ!」
「―――――――――――!!」
声なのか、も分からない音の咆哮と共に、私は腕を振り抜いた。
――ピッ……
「水……萌……………?」
女の断末魔は聞こえなかった。
代わりに、キリとはまた別の声が耳に届いた。
後ろを振り返る。
キリの隣に、身体を起こして私を見ている冴子の姿があった。
「…………冴子」
私が呟いたのと同時に、後ろの女の身体が、打ち上げに失敗した花火みたいに弾けた。
ぼたぼたと湿った重みのある音が落ちてくる。それは降り始めの雨のように疎らで、だけど嫌になりそうなほどの存在感があった。
生暖かい感触は、私とその周囲に降り注いだ。
「冴……」
私が一歩踏み出すと。
「ひっ……!」
冴子は後ろに下がった。
「冴子」
もう一歩踏み出すと。
「わ、こ……!」
冴子はまた少し下がった。
「さ……」
また一歩踏み出した。
「来ないでッ!」
私は歩くのをやめた。
そうか。
そうだよね。
あいつが怖がるくらいだもん。冴子はもっと怖いよね。こんなバケモノ目の当たりにして、冷静でいられるわけないよね。
私はまた一歩冴子に近づいた。
すると、冴子と私の間にキリが立った。
「それ以上サエコに近づくのなら、容赦しない」
邪魔……、するの?
「……あなたは、誰?」
冴子がキリに呟くように訪ねた。
「私が……見えるの? ……いえ、当然ね。この危機的状況において、自分を助けてくれる存在が見えないわけない」
「空色の髪……、水萌が言ってた幽霊?」
「幽霊、ね……。適切な表現かもしれない。私はあってないようなものだから」
「ね、ねえ! 水萌は! 水萌はどうなったの!?」
「ミナモは……」
「なんだか頭の中がぐちゃぐちゃで、何がなんだか……」
また一歩近づく。
「止まりなさい。今、あなたが来てもサエコを恐がらせるだけ」
「……ぁ」
冴子は震えていた。
「……怯えてあげないで。でないと、ミナモが傷ついてしまう……」
「…………水、萌?」
冴子が周囲を見渡した。
私は、ここにいるよ。
冴子は最後に私を見た。
…………気がした。
「もう、目を瞑って。これは夢。朝になれば忘れてしまう浅い夢。ここで起こったことは、全部空想」
キリが冴子の頭をポンと叩くと、冴子は眠るようにしてその場に崩れ落ちた。
それを確認したキリは、その手にナイフを握り、鋭い眼光で私を睨む。
「まず聞く。……あなたは、ミナモ? それともイレギュラー?」
キリにはわかっているはずだ。
私は。
「イレギュラー」
「そう……」
すると、キリはなぜか私に笑顔を向けてくれた。
言葉が通じてる。
「『ミナモ』って答えたら、すぐに斬りかかるつもりだった」
「どうし……」
「ミナモはどんくさいけど、優しい不器用な子なの。きっとこんな場面でも損するような発言をする」
「ひ、ひどいよ……」
キリは笑った。
だけどその笑顔はすぐに消えてしまった。
「でもごめん。私はもうミナモになにもしてあげられない」
キリはなぜか悲しげだった。
「どうしてキリがそんな顔するの?」
「どうしてって……」
「キリは当初の目的を果たせばいいだけ。私を消すって目的を、ね?」
キリはゆっくりと私に歩み寄ってくる。その足取りは重く、鉛の靴でも履いているかのようだった。
私とキリとの距離はほとんど無かった。その距離が詰まるまで、さほど時間はかからなかったはずだ。
だけど……、ああ……、だけど。
なんて長い時間だったろう。
一歩に一分。いや、それ以上掛かっていたような錯覚さえ覚える。それだけ私には、……そして多分キリにも、来てはほしくない時だったのかもしれない。
やがてキリは私の目の前までやってきた。
キリはナイフを握り、それを私に突きつける。凛とした瞳と共に。
「痛い……かな……?」
何を思ったのか私はそんなことを訪ねた。
「もう二回経験してるじゃない」
「あ、そうだったね」
でもあの二回はなんだか曖昧で、あまり覚えてないというか、実感がないというか。こうして、しっかりとした意識を持って刃を突きつけられると、やっぱり怖かった。
「怖い?」
「……うん」
「やめる?」
「だめだよ」
「だめ……よね……」
「躊躇ってる?」
「躊躇ってないと言ったら、嘘」
「私はバケモノだよ」
「ミナモはヒトだった!!」
キリが叫んだ。
彼女自身が驚くほど大きな声で。
「私は……」
キリがナイフを下ろす。
「ミナモを消したくない……」
それは彼女の使命を外れた行動。イレギュラーを消さないという選択。
だがそれは、許されない選択だ。
彼女はそれを選ぶことができない。
「キリ」
「…………」
「ありがとう」
「……」
「私、嬉しいよ」
「……」
「そんな風に思ってもらえて」
「ミナモ……」
「でも駄目」
「ミ……」
私はキリの手をとる。
のびてしまった爪で傷つけないように、細心の注意を払いながら。
「駄目なんだよ」
今はいい。
さっきあの女を殺したから。
でも、放っておけば空腹に耐えかねて葉に手を出すんだ。
このどうしようもない『ヒトへの憧れ』と『知識欲』。ひしひしと感じるんだ。この身体の底から無限に涌き出る水みたいに溢れ出る『欲』。ヒトは欲に塗れる生き物。私たちはある意味、『ヒト』へ近づけているのかもしれない。
「ミ……ナモ……」
キリの目から一粒の滴が落ちた。
「目から水……。ああ……、キリ、ないてるの?」
「泣いてなんか……!」
私はキリの頬を伝うその滴をペロリと舐めてみる。
塩辛かった。
「なくって、辛いの?」
「……辛いの」
水滴を手で拭ってキリは苦笑した。
赤い瞳がもっと赤くなっていた。
「悲しくて、辛くて、堪えられないものが出てくる。……それが涙」
「なみだ……」
「けれど、涙は悪いものじゃない。嬉しいときや、笑ってるときにも出てくるものなの」
「……よく、わからないよ」
「ミナモ、あなたが消えて泣く誰かがいる。それはとっても幸せなこと」
「そうなんだ……」
「あなたが生まれたとき、きっと誰もその事を喜ばなかったでしょう。けれど、その最期には涙する者がいる。……きっと、サエコが知ったら、手をつけられないほど泣くと思う」
冴子は眠っていた。
私がキリングエッジで消されたら、みんなから私の記憶は消え去る。
きっと、冴子からも。
「……」
それは、少しだけ寂しい気がした。
「ねぇキリ。いくつかお願いしてもいいかな?」
「私ができることなら」
私は自分が一度死んだ場所に目をやった。ここからだと建物の影になって見えないが……。
「あそこの、『ヒトの形』をした私だったものの中に、ケロッタのキーホルダーがあるの。それを、冴子に渡してほしいなぁ、って」
「御安いご用よ」
わざとらしく腕捲りして、ニカッと歯を見せて笑いながらキリは言った。
それが可愛らしいというか、意外というか。普段クールなキリからは想像できなくて、私は思わず笑ってしまった。
「それと、あとはキリへのお願いなんだけど」
「なに?」
私が消えてしまった世界。
それを知っているのはキリだけ。
だからキリにしか頼めないお願い。
「私を忘れないで」
キリの笑顔がゆっくりと消えていく。
「キリングエッジで消されたら、みんなの記憶から消えちゃうでしょ? それはちょっと、……ほんのちょっとだけだけど。……寂しいから。せめてキリだけには――」
「無理」
「え?」
「こんなおかしな『イレギュラー』忘れられるわけがない」
「もう、さっきから酷いなぁ」
「ミナモとの時間は楽しかった」
ナイフの先が、ずぷりと私の左胸に刺さった。
「私も、楽しかったよ」
刃の部分が徐々に短くなっていく。
「キリ、ごめんね」
「どうして?」
「大元のイレギュラーを探すって言ったけど、最後まで付き合えなくて」
キリは俯き加減に首を横に振った。
「いい。これは私の仕事」
ナイフは刃の根本まで刺さった。
「思い残すことは、もう、ないかな……」
「そう。それならよかった」
キリの目からなみだは消えていた。
「キリ……」
「なに?」
「やっぱりちょっと痛いかも」
「ごめん」
キリがナイフを引き抜くと、赤い赤い命が流れ出した。
それと一緒に、私の意識も抜けるように消えていった。