屋上
少し不安になることがある。
揺らめくような、揺れ動くような、何かに背中を押されるような、ひどく懐かしくて不安な気持ち。
そう感じるようになったのは、一ヶ月ほど前からだ。
学校一どんくさい女の子と呼ばれていた私は、少し滅入った気持ちを晴らすために、学校の屋上へとやってきていた。
屋上は閑散としていて、本当にただあるだけのような場所だった。当然ベンチなんか置いてないし、植物の植え込みなんかもない。周囲を囲っている柵も低くて、人が立ち入ることを前提としていない造りになっている。
私は剥き出しのコンクリートの上に寝転がる。
掃除なんかはされてないし、雨ざらしのこのコンクリートははっきり言って汚い。苔だって生えてるし、鳥の糞も落ちている。私はその中でいつも決まった場所に寝転ぶのだ。そこは柵の傍。頭を動かせば、屋上、空、グラウンドと見渡せる場所だ。何があってもすぐに気付けそうな場所。
と言っても、空から人が降ってくるわけでもないし、寝転んでいるからグラウンドからもほとんど見えない位置。それに屋上は立ち入り禁止で、ここに出られる唯一の扉にも鍵も掛かってるから誰かが来るわけでもない。私 はちょっとした裏技を知ってるから入れるんだけど。
だからここは私の場所。
私だけの場所なんだ。
「………」
そのはずなんだ。
だけど、どうして。
「あなた、どうしてここに居るの?」
いつの間にか私の傍に立っていた少女。
空のように青く輝く長い髪、少しつり上がった炎のように赤い瞳、雪のように白い肌。うちの学校の制服を着ているから、ここの生徒であることは間違いないのだろうけど。こんな生徒は見たことがない。日本人離れした容姿だから噂にならないはず無いんだけど。
「『どうして?』。それは私が聞きたい。『どうしてあなたがここにいるの?』」
「私が屋上に居たら変?」
私の問い返しに少女は深く息を吐き、心底呆れた様子で肩を落とす。
「狡猾にもヒトの形をして産まれてきたか。ここで始末してやろう、バケモノめ」
少女の手に握られた真っ白な刃は、鏡のように陽の光を反射して輝き、まるで聖なるものが放つ輝きのようだった。
刃は躊躇いなく私の左胸に落とされる。
私はその光景をまるで他人事のようにして見ていた。
噴水のように吹き出す鮮血は、屋上の床に飛び散り、徐々にコンクリートに滲んでいった。
身体中の力と体液が抜けていく。
だるい。
四肢が自分のものでないかのように、頼りなく横たえている。
抜けていく。
あらゆるものが抜けていく。
こんなふうに魂も抜けていくのだろうか。
溢れ出ていた赤い命はやがて底をつき、次に私から湧いてきたもの。
「ああああああああああああああ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛………」
声、かも、分からぬ音が口から漏れた。
「あなたは可哀想。私なら、決してあなたたちをこんな風にしなかった。消えるのは辛いでしょう? 悲しいでしょう? 寂しいでしょう? だけど安心して。あなたはまだ産まれてすらいない。形すらない。ただの概念。あなたたちがヒトを知るには途方もない時間と執念が必要。だからあなたはここで消えなければならない。まだ早すぎる」
その言葉は私にとって意味のあるものなのだろうか。
ああ、体が液体のようだ。
萎んでいく。
まるで空気の抜けた風船のように。
消えてゆく。
私が。
私だったものが。
「……本当に、何を考えているんだか」
少女は去っていく。
私を殺して、表情ひとつ変えず。
私は。
私は…。
私は?
「私は、なに?」
私は。
私は。
そう、私は。
むくりと体を起こす。
「死んで……、ない?」
身体中を調べてみるが、なんら変わったところはない。
「ゆ、夢…?」
と、呟いてみるが、それはすぐに違うと分かった。周りには大きな血溜まりができていて、私はそのど真ん中に座っている。制服にもその血は大量に付着していたし、左胸の辺りには鋭利な刃物で貫かれた痕があり、そこから下着と多少控えめな自分の胸が見えた。
ここで私は殺された。
あの不思議な少女に。
だけど私は生きている。
絶対に死ぬと思われるあの状況から生還している。
なぜ?
「バケモノめ」
あの少女の言葉が甦る。
私が、バケモノ?
今の状況がおかしいのは分かる。
でも、だからといって、見ず知らずの人間に、突然バケモノ扱いされたのには腹が立つ。
向こうの方こそ殺人鬼だ。
私を殺したくせに、表情ひとつ変えないなんて、どちらがバケモノなんだか。
――キーンコーン…
チャイムが鳴る。
そろそろ戻らないと、次の授業に遅れてしまう。私は屋上から降りた。