運命の相手は別の方だそうですが、私は婚約者と結婚します
「リディア・フェネル様。あなたの運命のお相手は、ユスト・ヴァレン様です」
銀の鏡に浮かんだ名前を、私は二度読んだ。隣に立つ婚約者の名前は、テオドール・グランツという。どの文字も似ていなかった。
母が私の肘に触れた。その指にも、私と同じように力が入っていた。鏡の前へ進み出た青年が一礼する。灰色の礼服を着た、知らない方だった。
「初めまして、リディア様」
返事をしなくては、と思ったのに声が出なかった。テオドールが半歩動き、私の顔を覗き込む。彼が口を開くより早く、神官が次の名前を読み上げた。
「テオドール・グランツ様。あなたのお相手は、ノエミ・ルブラン様です」
淡い緑のドレスを着た女性が、列の向こうからこちらを見た。私の手からテオドールの袖が離れた。無意識につまんでいたのだと、その時になって気づいた。
大きな鏡には、二組の名前が並んでいた。私たちの後ろで、誰かが小さく「お気の毒に」と言った。
春の縁見では、生まれ持った性質が最もよく合い、暮らすうえで行き違いの少ない相手が神託によって示される。その相手を、人々は運命の人と呼んだ。母と父も、この鏡に縁を教えられて結婚している。
相手の機嫌を探り、言わずに堪えることの少ない結婚。母から何度も聞いた話だった。私も今日までは、鏡にテオドールの名前が浮かぶのを楽しみにしていた。
「祝福の日まで、お相手とお話しになる時間を設けております」
神官は四人へ向けて、柔らかな声で続けた。明後日の金曜日には、家族の前で婚姻の予定を届け、祝福を受ける。私たちはその日のために、二人の名前を記した白い封筒を用意していた。
「リディア。一度、よくお話ししてみましょう」
母が声を落とした。母の手には、フェネル家とグランツ家の名を並べた封筒がある。私の結婚式までは、あと六週間だった。
「先方へのお知らせも、まだ間に合うわ」
「何を知らせるの?」
母が口を閉じた。自分でも思ったより大きな声が出てしまい、私は隣の青年に頭を下げた。
「ごめんなさい。あなたに失礼を申し上げたいわけではないのです」
「分かっています。私も、急にお名前を聞いたばかりですから」
ユスト様は一歩下がってくださった。困惑しているはずなのに、落ち着いた方だった。私は母へ向き直った。
「結婚のお相手を変える話は、まだしていません。まず、テオドールと話したいの」
鏡は縁を告げる。けれど、それだけで今ある婚約が解消されることはない。神官は頷き、庭へ出る扉を示した。
テオドールが、私の前へ手を差し出す。私はその手を取った。神官に名前を呼ばれてから、初めて息を深く吸えた。
庭のベンチには朝露が残っていた。テオドールは自分の手袋で端を拭き、少し考えてから、やはり濡れていない石の縁を探した。いつもなら私もそこで笑うのに、今日は彼の手から目を離せなかった。
「リディア」
立ったまま、彼がこちらを向いた。
「僕は、君と結婚するつもりで来た。今もそうしたい」
私は頷いた。すぐに言葉が返せなくて、彼の上着の袖をつまみ直した。
「あなたの名前じゃなかった」
「うん」
「私たち、合わないのかしら」
テオドールは鏡のある建物を振り返った。答えを見つけに戻りたい顔ではなかった。眉間を指で一度押さえ、私へ視線を戻す。
「思い当たることは、あるよ」
「ありますね」
私は朝早く起きて、まだ誰も話し始めないうちに一日の支度をしたい。彼は夜勤がない日には寝坊をし、起きるとすぐ、昨夜思いついたことを話したがる。
最初に一緒に町の祭りへ行った時も、私は鉢植えの並ぶ裏通りを、彼は楽隊のいる広場を見たがった。どちらへ行くか決まるまで、同じ角を二度曲がった。
「でも、あの日は広場へ行ってよかったと思ってる」
「僕は、鉢植えの方がよかった」
顔を見合わせた。
「だって、あなた、あんなに楽隊を見たがっていたでしょう」
「見たよ。たっぷり。そのあと君が、鉢の底から根が出ているからと、花屋の主人に植え替え方を聞いていた」
「聞いただけです」
「話が終わるまで、帰りそうもなかった」
最後には私の買った鉢を彼が持ち、その花に似合いそうだからと、彼の選んだ派手な鉢敷きを私が抱えて帰った。鉢敷きは黄色で、母は置き場所に困っていた。今は私の部屋にある。
「君と出かけると、予定どおりに帰れない」
彼が言ったので、私はようやく笑った。
「楽隊を二周も追いかけた人に、そう言われたくありません」
笑った拍子に、目尻が熱くなった。テオドールが手を上げかけ、私が指で目元を押さえるのを待った。
「君は、どうしたい?」
「あなたと結婚したいです」
一年前、両家の顔合わせの席で訊かれた時より、ずっとはっきり言えた。あの頃も彼に好意はあった。でも今は、仕事帰りに彼の姿が見えると歩く速さが変わるし、夜勤の朝に雨が降れば、街門の詰所の屋根を思い出す。
「ただ、聞いておきたいことがあるの。お金のこと」
「うん。僕もそれを考えていた」
神託に従って結婚する夫婦には、一年間、月に銀貨二十枚の新居補助が出る。私たちが仮に押さえていた家は、家賃が月に五十枚。補助が使えれば三十枚になるはずだった。そこには補助のある一年だけ住んで、その後は家賃の安い家へ移るつもりでいた。
相続する屋敷を持たない男爵家の次女と三男にとって、二十枚は小さくない。水道局の書記をしている私と、街門警備隊に勤める彼の手取りを合わせて、月に百枚だ。
「あの家を借りるなら、私のお給金から、もう少し――」
「リディア」
彼が途中で呼んだ。叱る声ではなかった。
「僕の分と君の分を合わせて百枚、と考えようって、決めただろう」
私は唇を閉じた。彼と初めて家賃の相談をした時、同じことを言ったのは私だった。彼が、自分の給金だけで足りる家を探そうとしていたからだ。
「別の家を見ましょうか」
「三十五枚までなら、毎月少しずつ残せる。明日、一緒に見に行こう」
「まだ、あの家の契約はしていないわよね」
「補助が使えることを条件に押さえてもらっただけだ。手付けも払っていない。今日、仲介所へ話してくる」
テオドールは、そこで少し言いにくそうにした。
「ただ、明日の午前中は寝かせてほしい。今夜が当直だ」
「もちろん。午後二時では?」
「助かる」
その返事を聞くと、鏡の前から離れてきた足に、ようやく力が戻った。私は彼の手を放し、彼が持っている濡れた手袋を見た。
「これ、お返しするまでに乾かしておきます」
「手袋?」
「さっき、ベンチを拭いたでしょう」
彼は今さら思い出したように手袋を見た。私へ渡そうとして、片方しか汚れていないことに気づき、もう片方も一緒に差し出す。
「できれば、二つとも返してほしい」
「片方を質に入れると思ったの?」
「君が忘れたら、取りに行く理由ができると思って」
私は二つを重ね、自分の袋へしまった。
「明日、ちゃんと持っていきます」
水曜日の午後、神殿の小広間で、ユスト様とお茶をいただいた。母は少し離れた窓際に座っている。テオドールも別室でノエミ様と話していた。一度も言葉を交わさず、違うと決めつけたくはなかった。
ユスト様は魔具店を営んでいた。水道局の仕事を話すと、街の給水時計を取り扱っているので場所は分かるとおっしゃった。私が毎朝通る並木道の、雨が降ると水のたまる箇所までご存じだった。
「あの道は、晴れた朝がいちばん静かですね」
「ええ。人が増える前に歩くのが好きなのです」
「私もです。朝は店を開けるまで、なるべく人と話さず過ごしたくて」
分かります、とすぐ答えていた。読書の話になっても、結末を急がず少しずつ読みたいというところが同じだった。無言でカップを置いても、次の話題を探さなくていい。
テオドールと初めて二人でお茶を飲んだ時には、話が途切れるたび、彼が思いついたことを口にした。窓の外を通った犬が昨日の犬と似ているとか、靴の踵を片方だけ直すと歩きにくいとか。その時の私は、どこで笑っていいのか迷っていた。
「お話ししやすい方で、安心しました」
ユスト様が言った。私は曖昧に笑うことをやめ、カップを置いた。
「私も、そう思っています」
「それでも、結婚なさりたい方は決まっているのですね」
頷くと、彼は残念そうに目を伏せた。神託があっても、気持ちまで先に定まるわけではない。それを知っている方だった。
「はい。今日、いっそう決まりました」
「差し支えなければ、どんな方か伺っても?」
私は、テオドールの説明をしようとして困った。誠実な方です、とだけ言うと、目の前の方にもそのまま当てはまる。優しい、頼りになる、という言葉も同じだった。
「……私の部屋に、黄色い鉢敷きがあるのです」
ユスト様の目が少し丸くなった。こんな話を始めるつもりではなかったので、私もおかしくなってしまった。
「鉢よりずっと派手で、母には不評なのですけれど。あの方は、それを選んだ理由を、今でも得意そうに話します。花が咲いていない時にも、部屋が明るくなるからと」
「なるほど」
「その鉢に水をやる時、次は何を見せようかと考えてしまうのです。葉が一枚増えたくらいでも」
ユスト様は、私が話し終わるまで待ってくださった。
「私には、まだその鉢の花も分かりませんね」
私は膝の上で指を揃えた。
「お時間をいただいて、ありがとうございました」
会わない方が、断るのは簡単だったかもしれない。けれど、目の前にいたのは誰かを傷つけに来た人ではない。私と同じように朝の静けさを好む、これから私を知ろうとしてくださった方だ。立ち上がる時、もう一度目を合わせて礼をした。
小広間を出たところで、母が肩のショールを掛け直してくれた。鏡を見る前から何度も直されている。春の神殿は石の床が冷えるから、と言っていた母自身は、外套の前を開けたままだった。
「いい方だったわね」
「ええ」
「そういう方をお断りするのは、つらいわね」
私は頷いた。母が私の答えを変えようとしているのではないと、今は分かった。
「お父様とは、こういうことはなかったの?」
「なかったわ。名前を聞いて、お会いして、ほっとしたのを覚えている。話さなくても分かってもらえることが多くてね」
母は、私の肩でずれていたショールをもう一度直した。
「あなたにも、そういう暮らしができたらと思ったの」
「うん」
母の望むものは分かる。私も父と母のような夫婦になりたいと思って育った。だから鏡にも確かめてもらいたくて、今日ここへ来たのだ。
「テオドール様と話すと、落ち着かない?」
母に訊かれ、廊下の先を見た。ちょうど別室の扉が開いて、彼とノエミ様が出てくるところだった。二人は何かの話の続きで笑っている。胸の奥を指先で押されたような気がした。
「落ち着かないことも、あります」
私は正直に答えた。
ノエミ様はこちらを見ると、笑顔のまま会釈なさった。髪に飾った羽根が、軽く揺れる。近づいてきた彼女は、思ったより背が高かった。
「リディア様。明後日の祝福も、テオドール様とお受けになるのですね」
私の知らないところで、彼がそう伝えたのだ。テオドールを見ると、今度は私を見て笑った。
「そのつもりです」
「よかった。どなたの名が映るのか、私もずいぶん気を張っていたの。お話しできて、楽しかったわ」
そう言って彼にも挨拶をし、付き添いの方のところへ戻っていく。背中を見送ってから、私はテオドールの腕を軽く引いた。
「とても、楽しそうでしたね」
「楽しかったよ。北の海岸をご存じで、あそこの馬車は車輪が大きいという話になって」
「私が知らないお話ですね」
「僕も行ったことはない。話には聞いていたから、いつか見たいと思ってた」
母が少し離れて、庭の花壇を見に行った。明らかに、見るほどの花は咲いていない花壇だった。
私はテオドールの腕から手を離した。
「あなたに似合う方だと思いました」
「うん」
「そこで頷くの?」
彼は困った顔をした。私も困っていた。話の合う方が現れたことは事実なのに、彼にもそれを認めてほしくないなんて。
「ごめんなさい。変なことを聞いたわ」
「リディア。あの方と話している間に、君のことも考えてた」
「何を?」
「北の海へ行くなら、道中にある花の温室にも寄ろうと思って。昨日までは、ただ海へ行きたかったんだけど」
彼が私の手を取り、自分の腕へ戻した。指先で、私の手袋の甲を一度撫でる。
「君に話すことができた、と思ったんだ」
私は彼の袖口を見た。手袋を預かっているので、そこから出ている指はむき出しだった。そちらの手も握りたくなったが、母が花壇にいるのでやめた。
「温室だけで帰ると言ったら?」
「海まで行こうと頼む」
「きっと、行ってしまうわね」
「温室にも、必ず寄るよ」
私たちは母の待つ花壇まで歩いた。出会って三年、婚約して一年経つのに、腕を組んだ歩幅がなかなか揃わなかった。彼が先に気づいてゆっくり歩く。今度は私も、いつもより少し歩幅を広げた。
翌日の午後二時、仲介所の前で待っていたテオドールは、私を見るなり手を差し出した。私は挨拶より先に、その上へ乾いた手袋を載せた。
「約束のものです」
「ありがとう」
「眠れました?」
「昼まで。君も、仕事を休めた?」
「縁見のために取っておいたお休みです。明日の祝福までは、窓口に呼び戻されないはず」
彼は二つともあるのをわざわざ確かめ、手袋をつけた。昨日の冗談を思い出して笑うと、彼も口の端を上げた。
月五十枚の家は、すでに仮押さえを取り下げてもらっていた。代わりに見せてもらう家は、川から一本奥へ入った通りにある。家賃は三十枚。仲介所の女性は、陽当たりのよい家ですよ、と鍵を揺らした。
玄関を開けると、部屋の奥に四角い光が落ちていた。窓の前には家具がなく、板張りの床が端から端まで見渡せる。私は外套を着たまま、つい窓辺へ歩いていった。
今の私の机は、実家の部屋の隅にある。書類の細かな文字を書く時、昼間でも灯りを近づけなくてはならない。ここに置いたら、と椅子に座る高さまで腰を屈めてみた。
「机の幅は?」
背後でテオドールが訊いた。私は両手を広げる。
「これくらい。もう少し広いかもしれない」
「ここまでなら、窓を開ける時にも邪魔にならないかな」
彼が窓枠の手前に立って、手を伸ばした。大きな手の影が床の上を動く。私はその影を避けるように、まだない机の位置を少しずらした。
「鉢も置ける」
「例の黄色いの?」
「鉢敷きです」
「あれを忘れないでくれれば、僕の荷物は後でもいい」
私は笑って立ち上がった。
家には小さな台所と、奥に寝室が一つあった。テオドールは窓の外の雨戸を確かめたいと言い、仲介人に断って、一度表へ出た。私は台所の棚を開け、鍋が何個入るだろうと数えかけた。
ここで朝の支度をしているところへ、夜勤を終えた彼が帰ってくる。靴音が聞こえ、玄関の扉が動いたので、考えたままの言葉が出た。
「お帰りなさい」
テオドールが、敷居をまたいだ格好で止まった。
仲介人は奥の窓を開けに行っている。部屋の中に、私たちだけが取り残されたようになった。私が言い直すより先に、彼が扉を静かに閉めた。
「ただいま」
いつもの挨拶と少し違う、低い声だった。玄関から三歩しか離れていないのに、こちらへ来るまでに長くかかった気がした。
テオドールは私の前に立ち、頬へ手を伸ばした。乾かしておいた手袋が触れたので、私はその手首に指を添える。
「今のを、もう一度聞きたい」
「何度も言ったら、練習みたいになってしまいます」
「一度くらい、練習してもいいんじゃないか」
奥の部屋で窓が勢いよく開いた。二人してそちらを向き、私は彼の手首を放した。テオドールは笑いをこらえるように唇を結び、上着の襟を直した。
寝室は、居間より少し暗かった。昼に眠る彼には、かえってよさそうに見える。仲介人が窓から顔を引き、外に干せば寝具もすぐ乾きますよと説明してくれた。
その声の途中で、硬いものを叩く音がした。二度、間を置いてもう一度。続いて、板を鋸で引く音が細く響いた。
「お隣は木工所ですか」
「ええ。日が暮れる前には終わりますから、夜は静かですよ」
仲介人は慣れた様子で答えた。私はテオドールを見た。彼は窓を閉め、少し待った。閉じても、壁越しに木槌の音が聞こえてくる。
「作業は、毎日?」
「お祭りと休日を除けば。ご職人も朝が早いので」
彼は頷いた。私たちを案内してくれた人に非はない。夜勤があることを、先に伝えていなかったのだから。
寝台を置くならこの壁際だろう。私はそこへ立ち、しばらく黙って音を聞いた。明け方に帰り、ようやく眠りかけたところへ、この音がする。
「今回は、見送ります」
私が言うと、テオドールはこちらへ顔を向けた。
「リディア、窓辺は」
「明るかったわ」
「とても気に入っていただろう」
「ええ。でも、私は居間で暮らすだけではないし、あなたも夜だけ寝るわけではないもの」
言い終えてから、少し強く言いすぎたかと彼を見た。テオドールはもう一度壁へ目をやり、それから仲介人へ向き直った。
「僕は夜勤があります。次は、昼間の音も先に教えていただけますか」
「ああ、そうでしたか。それなら、別の候補があります」
彼女は持ってきた帳面をめくった。窓の位置が分かる簡単な図が、紙の余白に描いてある。
私は居間を出る前に、一度だけ振り返った。床の上に落ちた光の端が、来た時より短くなっていた。まだない机も、黄色い鉢敷きも、そこには置かれない。
テオドールが扉を押さえて待っていた。私が通る時、彼は空いた手で、私の指を軽く握った。
仲介所へ戻ると、女性が別の家の案内を机に広げた。家賃は三十二枚。寝室が通りから離れた奥にあり、居間には窓が二つあるという。
「日曜日でしたら、大家さんに鍵を借りられます」
「二つの窓は、どちら向きですか」
テオドールが訊いた。私は隣から図を覗き込んだ。
「明るさは、実際に見ないと分かりませんね。お昼過ぎはいかがです」
「では、午後一時に」
私は返事をしかけて、彼へ顔を向けた。
「その日は、当直明けではない?」
「前の晩から休みだ。寝坊しても、間に合う」
日時を決め、図の写しを一枚受け取った。契約の紙とは違って、署名をする欄はない。窓の向きと、玄関から寝室までの道順を目で追いながら、私は先ほどの居間を思い出していた。
「残念だった」
外へ出てから言うと、彼は足を止めた。私はもう一度言った。
「あの窓辺、好きでした」
「うん」
「でも、あそこに決めなくてよかった。それでも、残念なの」
テオドールは隣から、私の持つ図を覗き込んだ。
「僕も、あそこから帰りたくなかった」
「あなたも?」
「玄関で、もう一度言ってほしかったから」
人がすぐ横を通ったので、私は声を小さくした。
「それは、どの家でも言えます」
「じゃあ、寝室でちゃんと眠れる家に帰ろう」
彼が先に手を差し出す。私は紙を半分に畳み、空いた方の手を重ねた。神殿を出た時と違って、袖をつかまなくても、指を深く絡められた。
その晩、母は私の部屋へ小さな箱を持ってきた。結婚の時に持たせるつもりで揃えていた針と糸である。蓋の内側には、私の名の最初の文字が刺繍してあった。
「新しい家は、決まった?」
「今日は見送りました」
母の顔が少し曇ったので、私は木工所のことを話した。窓辺は気に入ったことも、彼が次の家の窓の向きを訊いてくれたことも。
母は箱を膝に置いたまま、最後まで聞いていた。
「あなたが我慢すればいいと、思わなかったのね」
「最初は、そう考えそうになったわ。仮押さえしていた家なら、お給金からもう少し出せばって」
「彼は?」
「二人のお金でしょうと言われました。私が前に、同じことを言ったのを覚えていたの」
母は膝の箱の蓋を開けたり閉めたりした。糸巻きが、内側で小さく転がる。
「母さん。補助のない家でも、二人で暮らしていけます。三十五枚までと決めて、今度の家は三十二枚なの。貯めてきた分は、敷金と必要な家具に使う。急にお金が要ることがあっても、毎月少しは残せるようにします」
母が私の机を見た。角が欠けた机だが、引き出しの滑りはよく、書き物をするには困らない。結婚が決まってから、私が少しずつ身の回りを整えてきたことも、母は見ていた。
「あちらのお家のように、大きな客間はなくなるわね」
「うん。お母様がいらしても、居間でお茶を飲んでいただくことになると思う」
「それは今もそうでしょう。あなたの部屋に来るたび、廊下へ追い出される椅子がかわいそうよ」
私は扉の外へ出していた椅子を取りに行った。母がようやく笑い、箱を私へ渡す。
「二十二歳まで一緒に暮らしたのに、私の知らない相談を、もうたくさんしているのね」
「全部ではないわ」
テオドールの当直の日に、朝食をどちらが用意するかもまだ決めていない。彼の寮の荷物がどれくらいあるか、私は見たことがない。
母は椅子へ移り、縫い針が落ちないよう箱の仕切りを押さえた。
「明日は、そのお話を自分たちでなさい。お母様の望みは聞いたでしょうから、もうよその方にまで譲らなくていいわ」
少しおかしな言い方で、母が鼻をすすった。私も泣きそうだったが、笑ったら先に涙が出た。袋からハンカチを出し、目元に当てた。
母は自分のハンカチを探し、見つからないと私の手にあるものを半分借りた。幼い頃はいつも、その逆だった。
金曜日の朝、母が持ってきた封筒には、最初に書いた二つの名前が残っていた。まだ糊付けをしていない口を開き、私へ中の届けを見せる。
「これでいいのね」
「はい」
テオドールは、神殿の階段の下で待っていた。隣には、グランツ家の代表として来てくださった長兄の姿がある。お兄様は私たちに挨拶をしてから、テオドールの肩を軽く叩いた。
「襟が曲がっている」
彼が慌てて触った場所は、何も曲がっていなかった。お兄様は笑い、母と並んで先に階段を上がっていく。
私はテオドールの正面に立ち、動かしたせいで本当にずれてしまった襟を直した。
「眠れませんでした?」
「昨夜はちゃんと寝たよ」
「それなら、よかった」
「君の方は?」
「明け方に、少し早く起きてしまったわ」
布を指先で押さえて整える。彼が私の頭の上へ顔を寄せた。耳にかかるくらいの、小さな声だった。
「今日は、戻ってきてくれて嬉しい」
「どこから?」
「明るい窓のある方から」
私は彼の襟から手を離せなくなった。一軒目のことを言っているのだと分かった。
「あなたも、海の見える方から戻ってきたでしょう」
テオドールが笑った。ユスト様との会話も、ノエミ様の話も、消してしまう必要はなかった。二人で階段を上がると、母がお待ちかねよという顔でこちらを見た。
十一時の鐘が鳴り、祝福の間の扉が開かれた。
白い花の置かれた台の向こうに、縁見を務めた神官が立っていた。鏡には今日は薄布が掛けられ、代わりに、婚姻の予定を書き留める帳面が台の上に開いている。
前の組の二人が署名を終え、家族の方へ振り返った。顔を見合わせて笑う様子に、私の肩も少し緩んだ。あの二人にも、これから帰る家があるのだろう。
私たちの番になり、テオドールと並んで前へ出た。神官へ白い封筒を渡す。紙の擦れる音が、思っていたよりよく響いた。
「リディア・フェネル様と、テオドール・グランツ様ですね」
神官は名前を読み、届けの次の欄へ目を移した。
「新居補助のお申し込みは、なさらないとのこと。こちらも、お二人でお決めになりましたか」
「はい。二人で相談しました」
私が答え、テオドールも頷いた。背後の椅子が、小さく鳴った。誰が動いたのかは振り向かなかった。
神官は台の上へ届けを置き、私たちを順に見た。
「では、お一人ずつ伺います。ここに名を記す方との婚姻を、あなた自身が望んでいますか」
私はテオドールを見た。
知り合った頃には、彼の考えていることが分からなくて、母に教わった挨拶を繰り返すばかりだった。今も分からないことはある。さっきのように、急に変な言い方で喜ばせてくる。
明日の朝も、六週間後の朝も、その先も、全部うまく答えられる自信はなかった。でも、言い間違えたことを話し直せる相手が、すぐ隣に立っていた。
「はい。私は、テオドールと結婚します」
自分の声が、思ったより静かに聞こえた。
「好きです。帰ってきたこの人に、お帰りなさいと言いたい。私も仕事から帰ったら、今日こんなことがあったと話したいです」
テオドールの喉が動いた。笑いたいのか、困っているのか、目だけではうまく分からなかった。
「今みたいに、聞いていてほしいです」
彼は頷き、神官の方へ向き直った。
「僕も、リディアとの結婚を望んでいます」
先ほどまで緊張していた声が、そこで落ち着いた。
「彼女が好きです。僕が話しすぎたら、今は静かにしてと言われることもあると思います。その時は、少し待ちます」
神官の口元が緩んだ。私は笑ってしまい、それから、彼が続きを言うのを待った。
「それでも、次に何か面白いものを見つけたら、最初に話したくなるのは彼女です。一緒に暮らしてください、リディア」
私は声にして「はい」と返した。
彼の手がこちらへ動き、途中で止まる。署名が先だった。神官が二本のペンを差し出してくれたので、私は左の一本を取った。
帳面に、六週間後の婚礼の日付と、私たちの名が記される。私が署名をして、彼がその隣へ署名をした。彼の最後の一文字が、私の名の方へ少し寄った。
神官は、別の組にしたのと同じように、祝福の水を私たちの指先へ落とした。
「お二人の暮らしに、よき日々がありますように」
私は濡れた指先のまま、テオドールの手を握った。彼が握り返す。名前を呼ばれた水曜日には、どこへ持っていけばいいか分からなくなった手が、今は彼の手の中に収まった。
母が座っている方を見ると、口元にハンカチを当てていた。テオドールのお兄様は、弟に向かって小さく頷いてくださった。
神殿を出たところで、母が私の頬に触れた。
「家が決まったら、呼んでちょうだい」
「大きな客間はないけれど」
「居間の椅子で結構です。今度は廊下に出さないでね」
私は笑って頷いた。お兄様は、荷物を運ぶ日に荷車が要るなら言うように、とテオドールへ伝えていた。父にも、今日のことを自分で話そうと思った。
両家の二人が先に歩き出し、私たちは階段の脇に残った。テオドールは署名の済んだ届けの控えを、折れないように懐へしまった。私は彼の肩へ手を置く。
「どうした?」
「少し、こっちを向いて」
彼が屈んでくれたので、頬に唇を触れさせた。離れたあとで見ると、彼は驚いたまま私を見ていた。
「先に、するつもりだった」
何を、と訊く必要はなかった。私は彼の上着の前へ指を掛け、もう一度顔を上げた。テオドールの手が背中を支える。近づいてくる彼の瞼が下りたので、私も目を閉じた。唇が触れた。
ほんの短い口づけだった。階段の上で人の足音がして、二人とも離れた。彼が私の耳の脇に落ちた髪を直し、私も彼の襟に手を伸ばす。
「それは、もう直ってる」
彼に言われて、手を引っ込めた。
「知っています」
テオドールが笑い、その手をつかまえた。指を絡めて歩き出すと、先に行っていた母が一度こちらを振り返り、すぐ前を向き直った。
「日曜は、仲介所の前に一時でよかったね」
「ええ。今度は、机の幅を測ってから行きます」
「寝室では、少し長く黙ってみよう。窓を閉めた時の音も聞きたい」
「静かにしてと言う前に、黙ってくれるの?」
「内見の間くらいはね」
私は笑った。家はまだ決まっていない。窓から何が見えるのかも、彼の寝台をどちら向きに置けるのかも、日曜日に二人で確かめる。
「それと、鉢敷きの大きさも測らなくては」
「あれは大きいよ。選んだ僕が言うのも何だけど」
「知っています」
階段を下りきるまで、彼は少しゆっくり歩いた。私は半歩先へ出て振り返る。テオドールが追いついてきたので、そのまま並んで、仲介所へ行く通りの方へ足を向けた。
「今日は、家を見る日じゃないだろう」
「ええ。お店で、物差しを買いたいの」
「長いやつ?」
「二人で持つくらいの」
彼は私の手を一度ぎゅっと握り、道の先を見た。私もそちらを向いた。隣を歩く人に、窓辺に置く机の話をしながら。
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