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婚約破棄された「雑用係」の私、実は王国唯一の暗号書記官でした。もう殿下の婚約者には戻りません

作者: AI之助
掲載日:2026/09/21

 静寂の満ちる宮廷の謁見の間において、私の足元へ滑り落ちた一枚の羊皮紙は、乾いた軽い音を立てた。


「これをもって、アリア・リンツとの婚約を破棄し、宮廷書記官の職を解く!」


 頭上から降り注ぐのは、第一王子レオンハルト殿下の冷徹で傲慢な声だった。その隣には、豪奢なドレスを身に纏い、殿下の腕にぴったりと身を寄せている男爵令嬢エレナの姿がある。


「……承知いたしました、レオンハルト殿下」


 私は静かに頭を下げ、深く息を吐き出した。視線を落とした先に転がるのは、正式な解雇宣告書だ。殿下はそれを足で踏みつけるかのように近づくと、鼻で嘲笑した。


「フン、潔いな。お前のような女が将来の王妃など、笑止千万。己の分不相応さにようやく気づいたか」


 謁見の間の広大な空間に、殿下の冷たい声が響き渡る。周りに控える近衛兵たちも、私を憐れむというよりは、役目を終えた不要物を払いのけるかのような冷ややかな目線を送っていた。


 なぜ、こうなったのか。一年前まで、私は国家の重要な書類を扱う優秀な書記官として、また殿下のフィアンセとして、この宮廷で重宝されていたはずだった。だが、いつの間にか私の立場は失われ、ただの「雑用係」へと貶められていた。


「殿下、理由をお聞かせ願えますでしょうか」


 私は淡々と尋ねた。動揺を見せない私の態度に、レオンハルト殿下は苛立ちを隠そうともせず、指を三本立てて言い放った。



「一つ、お前は外交文書の清書くらいしか能のない雑用係だ。日夜デスクにこもり、ただ文字を書き写しているだけの女など、王家の誇りにはなり得ん。二つ、エレナに比べて華やかさのかけらもなく、社交界の顔にはなれん。お前のその地味なドレスと冴えない顔は、我が王国の面汚しだ。そして三つ、書記官の仕事など、エレナが少し字を習えば明日からでも務まる。お前の代わりなどいくらでもいるのだよ」


 殿下に寄り添うエレナが、扇の陰からくすくすと不快な笑い声を漏らした。


「アリア様、殿下の隣には私のような華やかな女性のほうがお似合いですわ。毎日毎日、暗い部屋で羊皮紙に文字を書くだけのお仕事、本当にご苦労様でした。これからは私が殿下をお支えし、社交界の華として宮廷を彩ってみせますわ」


 エレナの言葉には、あからさまな見下しと嘲笑が込められていた。


「……そうですか。殿下のおっしゃる通り、私は『清書』しかしておりませんでしたね」


 私は怒りも涙も見せず、ただ静かに微笑んだ。


 私、アリア・リンツは、下級貴族であるリンツ伯爵家の娘だ。リンツ家は派手な社交界からは距離を置き、代々宮廷の記録保管所や書記官として王国に仕えてきた。私がレオンハルト殿下の婚約者に選ばれたのも、華やかさを買われたからではない。幼少期からのずば抜けた記憶力と、正確無比な文書処理能力を前国王、つまり現国王陛下に買われたからだった。


 しかし、レオンハルト殿下は違った。彼は外見の美しさや社交界での名声ばかりを重んじ、地味に書類と向き合い続ける私の仕事を「ただの雑用」と断じた。数ヶ月前、社交界に現れたエレナ・男爵令嬢の甘い言葉に毒された彼は、次第に私を排斥するようになったのだ。


 私には逃げ場がなかった。リンツ家は実直さが取り柄の小さな家柄であり、王家の決定に異を唱える権力などない。また、婚約誓約書には「王家の決定に従わない場合、家門の爵位を剥奪する」という条件が組み込まれていた。私は父や母、そして家を守るため、どれほど不当な扱いを受けても、ただひたすらに書類を書き続けるしかなかったのだ。


 毎日朝から深夜まで、仄暗い執務室で何百枚もの羊皮紙と向き合う日々。私の手がインクで黒く汚れ、目の下に隈ができるのを見て、エレナは「哀れなインクの奴隷」と笑い、レオンハルト殿下は「見苦しい」と吐き捨てた。


「さっさと出て行け! 二度とその不快な顔を私の前に見せるな!」


 レオンハルト殿下の一声が響く。私は深く一礼し、自分のデスクへ向かった。私物をまとめる時間は数分しか与えられなかった。私は使い古された羽ペン一本と、私個人の手帳である数枚の羊皮紙の束だけを手にとり、そのまま宮廷を後にした。


 引き継ぎ資料は何ひとつ残さなかった。残す必要などなかったからだ。



 城を出る際、私は宮内の兵士や侍女たちからも冷ややかな視線を浴びせられた。エレナが事前に「アリアは無能ゆえに追放された」という悪評を触れ回っていたからだ。


「聞いたか? あのアリア様、追い出されたそうだぞ」


「当然でしょう。いつも暗い顔をして、書類を抱えて歩くだけ。エレナ様のように美しく、殿下を立てるお方こそが王妃にふさわしいわ」


「これで宮廷も少しは華やかになるな」


 心ない噂話が私の背中に突き刺さる。長年、寝る間も惜しんで王国の外交と財政を支える書類を処理してきた結果がこれだった。私が夜遅くまで残業し、国の矛盾や計算違いを密かに修正していたことなど、誰も知りはしない。レオンハルト殿下が社交界で「優秀な執政者」と持ち上げられていた成果の九割は、私が陰で書き直した政策書によるものだったというのに。


 私には私財すらほとんど残されていなかった。毎月支払われるはずだった書記官としての手当は、レオンハルト殿下が「婚約者としての維持費」という名目で大半を没収し、エレナへのプレゼントや派手なパーティーの開催費用に消えていたからだ。


 雨が降り出しそうな曇り空の下、私はたった一つの鞄と羽ペンを抱え、冷たい石畳の街を歩いた。身を寄せる実家も、宮廷からの圧力で私の帰宅を拒むよう通達が出されているはずだ。孤立無援。徹底的に追い詰められ、踏みにじられた状態だった。



 翌日。


 宮廷の謁見の間には、緊張感が走っていた。隣国であるガリア帝国の全権大使が訪れていたからだ。数年に一度更新される、両国間において最も重要な「鉱山資源相互通商条約」の締結式が執り行われようとしていた。この条約が締結されなければ、王国の主産業である鍛冶や軍需品製造は一瞬で立ち行かなくなる。


 レオンハルト殿下は、真新しい豪華な書記官の衣装を着たエレナを伴い、満足げに全権大使を出迎えた。


「大使、遠路はるばるご苦労。我が王国は常にガリア帝国との友好を重んじている。さあ、条約の更新手続きに入ろうではないか」


「ええ、殿下。過去五十年にわたり交わされてきた伝統に従い、条約の原本を確認し、相互の署名を行いましょう」


 重厚な声で大使が応じる。レオンハルト殿下は機嫌よく、エレナに命じた。


「エレナ、書庫の最奥にある条約原本を持ってこい。アリアが管理していた羊皮紙だ」


「はい、殿下! お任せくださいわ!」


 エレナは胸を張り、カツカツとハイヒールを鳴らして書庫へと向かった。彼女にとって、これは自分が新しい宮廷書記官として社交界と国政にデビューするための、最高の晴れ舞台のはずだった。



 しばらくして、エレナが恭しく木箱を抱えて戻ってきた。


「殿下、アリアのデスクの一番上に置かれていた、最も重要そうな羊皮紙を持ってまいりました!」


「うむ、よくやった」


 レオンハルト殿下は満足げに頷き、全権大使の前で誇らしげに木箱を開け、中の羊皮紙を広げた。


 しかし――その瞬間、レオンハルト殿下の表情が凍りついた。


 広げられた羊皮紙に書かれていたのは、アルファベットでも、王国の標準語でもなかった。そこにあったのは、意味不明な直線、点、そして幾何学模様が複雑に交差する、まるで子供の落書きか悪魔の儀式のような図形だった。


「な……なんだこれは!?」


 レオンハルト殿下は声を荒らげた。


「読めない! 文字ではないぞ! エレナ、どういうことだ! 違う書類を持ってきたのではないか!?」


「ひ、ひえっ! そんなはずはありません! アリアの机の鍵付きの引き出しに、大切に保管されていた原本です……!」


 エレナはパニックに陥り、声を出して怯えた。


 その混乱した様子を静かに観察していたガリア帝国の全権大使が、ゆっくりと歩み寄ってきた。大使は羊皮紙を一瞥すると、深いため息をつき、冷ややかな視線をレオンハルト殿下に向けた。


「レオンハルト殿下。……まさかとは分かりますが、お聞きします。条約更新の準備は整っておられるのですね?」


「た、大使……この書類は何なのだ? 我が国の書記官がふざけた悪戯を残していったようだが……」


「悪戯、だと?」


 大使の眉がぴくりと動いた。


「殿下はご存じないのですか? 過去五十年、我がガリア帝国と貴国が交わしてきた重要条約はすべて、両国の機密保持のため『リンツ家の暗号』でのみ記述・保管される手はずになっております」


「リンツ家の……暗号……?」


 レオンハルト殿下の顔から、一気に血の気が引いていった。



「そうです」と大使は厳しい声で続けた。


「初代リンツ伯爵が開発したこの特殊暗号は、代々リンツ家の直系だけに口伝で引き継がれる絶対解読不可能な特殊記号体系。国家間の最重要密約が敵国や盗賊に漏洩するのを防ぐため、貴王国の歴代国王が認めた唯一無二の防衛措置です。そして……その暗号を解読し、正確な標準語に翻訳できるのは、現世代ではアリア・リンツ嬢ただ一人のはずだが?」


「な……」


 レオンハルト殿下は言葉を失った。


 そう、私が日々行っていた「清書」とは、ただの代筆作業などではない。各省庁から送られてくる膨大な機密文書、鉱山や軍事の協定書、外交上の極秘交渉記録を、リンツ家固有の暗号へと変換し、完璧に保管する「王国唯一の暗号書記官」の仕事だったのだ。


 私が「ただ書類を書き写しているだけ」に見えたのは、解読と暗号化のスピードがあまりにも速く、正確だったからに過ぎない。


「殿下」大使は冷ややかに告げた。「まさか、暗号解読官であり、この条約の鍵を握るアリア嬢を解任したなどという愚行を侵したわけではありませんよね? もしそうなら、我が国はこの条約を破棄し、鉱山資源の供給を即座に停止します。これは国家に対する深刻な不信行為です」


「ひ……っ!」


 レオンハルト殿下の膝がガクガクと震えだした。エレナは顔を蒼白にしてその場にへたり込んでいる。


「アリアを……今すぐアリアを呼び戻せ!!」


 レオンハルト殿下の必死の叫び声が、謁見の間にむなしく響き渡った。



 しかし、その頃、私はすでに王都の門をくぐり抜けた先にいた。


 私を乗せた馬車の向かい側には、落ち着いた佇まいの青年の姿があった。彼の名はルードヴィヒ。この王国の第二王子であり、レオンハルト殿下の異母弟にあたる人物だった。


「アリア殿、突然のお誘いに応じていただき感謝する」


「いいえ、ルードヴィヒ殿下。私のような追放された身をお救いいただき、お礼を申し上げたいのは私の方です」


「ハハ、追放だと? 兄上の目が節穴なのは今に始まったことではないが、まさか国の屋台骨たる君を手放すとはね。私は以前から君の仕事ぶりを評価していた。君がリンツ家の暗号を完璧に扱い、陰で国の財政赤字を修正していたことも知っているよ」


 ルードヴィヒ殿下は温かい笑みを浮かべた。


「これから向かうガリア帝国の王立図書館では、君の能力を正当に評価する準備ができている。顧問として、好きなだけ古文書や暗号の研究をしてくれ」


「ありがとうございます……!」


 私の胸に、温かい解放感が広 meがっていった。だが、まだ事態は解決したわけではない。王国に残されたあの男たちが、このまま大人しく引き下がるはずがなかったからだ。



 アリアが宮廷を去ってから三日。


 レオンハルト殿下は半狂乱になっていた。アリアの実家であるリンツ伯爵家に押し掛けたものの、両親は「娘の行方は存じません。殿下が追放されたのですから」と突っぱねられ、捜索隊を出しても彼女の足取りは途絶えていた。


 その間にも、ガリア帝国からの圧力は日に日に強まり、条約の更新期限は刻一刻と迫っていた。鉱山の稼働が止まり、王国の経済は麻痺しかけていた。


「クソッ! なぜだ! なぜあの女一人がいないだけで、この私がここまで追い詰められねばならんのだ!」


 レオンハルト殿下は執務室で荒れ狂い、書類を撒き散らした。


 そこへ、エレナが青ざめた顔で走り込んできた。


「で、殿下! 朗報ですわ! 書庫の奥から、アリアが残していったと思われる『暗号の解読表』のようなメモが見つかりましたの!」


「何だと!? 本当か!」


 レオンハルト殿下はエレナの手からその紙切れをひったくった。そこには、複雑な図形と、それに対応すると思われる文字の一覧がびっしりと書き込まれていた。


「ハハハ! 見ろ! あの女も詰めが甘い! こんな決定的な証拠を残していくとはな!」


 レオンハルト殿下は狂喜乱舞した。これさえあれば、自分たちの手で条約書を解読し、アリアなど呼び戻さずに問題を解決できる。そうなれば、自分の正当性が証明され、アリアを「機密漏洩の罪」で捕らえることすらできると考えたのだ。


「よし! エレナ、お前がこの表を使って条約書を解読しろ! ガリア帝国の全権大使を呼び戻すのだ!」



 数時間後、ガリア帝国の全権大使と、異変を聞きつけた国王陛下、そして重臣たちが謁見の間に集まった。


「父上、大使! ご安心ください! アリアという無能な女が隠していた解読表を発見いたしました! これにより、我が国独自で条約を解読・更新いたします!」


 レオンハルト殿下は胸を張り、エレナが解読表をもとに読み上げた「条約の内容」を提出した。


 全権大使はその書類を目にすると、呆れたように首を振った。


「……レオンハルト殿下。これは一体何の冗談ですか?」


「え……?」


「この『解読表』を使って解読された文章は、支離滅裂な単語の羅列であり、条約文書などでは断じてありません。それどころか……」


 大使は冷ややかな目でエレナを睨みつけた。


「これは、リンツ家が解読者を欺くためにあらかじめ仕掛けておく『偽の罠(ダミーコード)』です。本物のリンツ家の暗号は、書き手の『精神的筆跡』と『特殊なインクの配合』によって解読パターンが変化する。単なる一対一の変換表など、存在しないのですよ」


「な……なに……!?」


 レオンハルト殿下とエレナは硬直した。


 私が残していったメモは、万が一にも書類が盗まれた際、盗人に誤った情報を与えて自滅させるためのカモフラージュだったのだ。専門的な知識もないエレナがそれに飛びつき、まんまと偽の解読結果を告発の場で披露してしまったのである。



「愚か者めが!!!!」


 謁見の間に、国王陛下の怒号が響き渡った。


「父上……! これには訳が……!」


「黙れ! 隣国との重要な条約を危機に晒し、国の防衛の要である暗号書記官を勝手な私情で追放し、挙句の果てに偽の解読書で国際的な醜態を晒すとは! もはや庇いきれん!」


 国王陛下の命令により、即座に厳しい処分が下された。


 第一王子レオンハルトは、国家存亡の危機を招いた責任を問われ、第一王位継承権を完全に剥奪。王族としての籍を削られ、極寒の北部に位置する極小の村での終身謹慎および開拓作業を命じられた。華やかな王宮生活は永久に失われたのだ。


 そして、レオンハルト殿下を唆し、宮廷の機密文書を軽率に扱い、偽の解読表で混乱を招いたエレナ・男爵令嬢も免れてはいなかった。


「男爵家は国家機密管理を怠った共犯として爵位を剥奪、全財産を没収とする! エレナ! お前は王都の清掃員として、自らが汚した街のゴミを拾い続けて罪を贖え!」


「そんな……! いやですわ! 私は社交界の華になるはずだったのに! 殿下、助けてくださいまし!」


 泣き叫ぶエレナだったが、すでに王位を追われたレオンハルトに彼女を庇う力など残っていなかった。二人は兵士たちによって無惨に引きずられていった。


 かつて私を「代わりなどいくらでもいる」「インクの奴隷」と見下した二人の地位、信用、そして誇りは、たった一日で完膚なきまでに崩れ去ったのだった。



 一方、私はガリア帝国の王立図書館で、穏やかな日々を送っていた。


 ルードヴィヒ殿下の手配により、私は「国家上級暗号顧問」という破格の役職で迎え入れられていた。ガリア帝国側は私の技術と知識を極めて高く評価し、広々とした日当たりの良い個室と、最新の文房具、そして美味しいお茶を用意してくれた。


「アリア先生、こちらの古文書の解読をお願いできますか」


「ええ、喜んで。ルードヴィヒ殿下」


 私は第二王子ルードヴィヒ様から受け取った羊皮紙に目を通す。社交界の醜い派閥争いや、レオンハルト殿下からの不当な圧迫感から解放された環境で行う解読作業は、私にとって至福の時間だった。


 レオンハルト殿下の最大の誤算は、私を単なる「都合のいい作業員」と思い込んでいたことだ。彼が私に押し付けていた膨大な雑務は、実は国家の防衛システムそのものであり、私が一歩城の外に出れば、そのシステム全体が停止するように設計されていた。


 また、ルードヴィヒ殿下が以前から私の仕事ぶりに注目し、水面下でガリア帝国とのパイプを築いていたことも、レオンハルト殿下には見えていなかった。彼は表面的な華やかさに目を奪われ、足元を支える真の価値を捨て去ったのだ。



 ある日の午後。


 図書館の日当たりのいい書斎で、私がルードヴィヒ様と紅茶を楽しんでいると、突然廊下で騒ぎが起きた。


「アリア! アリアはどこだ! 会わせてくれ!」


 ボロボロの服を着た男が、警備兵に取り押さえられながら叫んでいた。


 それは、北部の村へ送られる途中で脱走してきたという、みすぼらしい姿のレオンハルト元殿下だった。髪はボサボサで、かつての気品など微塵もない。


 彼は警備兵を振り切り、這うようにして私の部屋の入り口まで駆け込んできた。そして、床に膝をつき、地面に頭をこすりつけた。


「アリア! 頼む、戻ってくれ! 私が悪かった! 私が愚かだったのだ! お前がいないと国が立ち行かない! 条約の暗号を解いてくれ! もう一度……もう一度、私の婚約者にしてやるから! 王妃にしてやるから……頼む助けてくれ!」


 男涙を流し、なりふり構わず泣きつく元殿下。


 私は手していた羽ペンをそっと机に置き、静かに彼へ目を向けた。その瞳に、かつてのような恐怖や遠慮は一切なかった。ただ冷ややかな静寂だけがあった。


「……殿下。『アリアの代わりなどいくらでもいる』とおっしゃいましたよね」


「そ、それは……口が滑ったのだ! お前しかいない! お前だけが私の……!」


「ご自分で蒔いた種です。どうぞ、代わりの優秀な方々とご一緒に、解読なさってください」


「アリアぁぁぁっ! 頼む! 助けてくれえええっ!」


 警備兵たちに両脇を抱えられ、引きずられていくレオンハルト元殿下の見苦しい叫び声が、廊下の奥へと消えていく。私はただ静かに、執務室の重厚なドアを閉めた。


 ――もう遅いのです、元殿下。


 静寂が戻った部屋で、ルードヴィヒ様が温かい紅茶を淹れ直してくれた。


「災難だったね、アリア殿」


「いいえ。これで、過去との区切りがつきました」


「それはよかった。実は、君に新しく解読してほしい古文書があるんだ。何百年も誰も読めなかった、古い愛の詩らしいのだが……興味はあるかい?」


「愛の詩、ですか? ふふ、とても興味深いですわ」


 窓から差し込むやわらかな光の中で、私は新しい羊皮紙と羽ペンを手にとった。


 誰かに利用されるためではなく、己の知性と愛する学問のために文字を紡ぐ。


 その手に握られた羽ペンは、今度こそ私の本当の幸せを描き始めていた。


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