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とも、年輪を重ねてね

掲載日:2026/04/25

 かたん。その音。陶器の茶碗が机で音を鳴らした。きっとあの円筒状の碗の中で茶の波がさららと揺れている。

 いつ、あの湯呑みが彼の手に握られ始めたのだろう。そうだ、私が。私が彼にと選んだのだ。あのときの表情が眼前に浮かんだ。もう色褪せた思い出はどれほど正確なのか。あの顔をもう、忘れてしまえたらいいのだろうか。もう見せてもらえないのかなぁ。こうやって__もう落ちない漿果を、もう実らない果実を待っているのか、私の前の木、それはどんな様相なのかな。

 鹿威しが傾いて音を響かせる。水の()もまた耳をくすぐってその家を包んだ。庭もその音を楽しんでいる。


 いつからこうだったのだろう。昔は…‥もう少し、二人で笑い合っていたのに。いつから、隣を歩けなくなったのだろう。まるで断層のように、愛用していた__割れたコップのように、ずれてしまっている。その気がけだるくこびりつく。

 決して、悪くない日々だったはずだ。そう思うのに。

 頭は考えるのが好きなようで廻っている。

 彼は私の好きなものを知っているのだろうか。その目に映っているのは、映っていたのは私だったのだろうか。指は木の板をなぞっている。

 私が知っている彼は彼なのか。好きなものを偽られていたら、気づけるのかなぁ。気づけたんだろうな。

 戸棚からぽつと歩いて、卓に座るガラス製のティーポット。模様の丸みが光を屈折させ、ややと茶葉の色が、鮮やかに透けて、ガラスを通って色が交わりを魅せる。種々の雅。

 貴方でなくたってよくて、私でなくたってよかったはず。貴方でしか!なんてことは……少なくとも、私達は違った__。誰でもよかったことはないだろうけれど、それでも貴方でなくともよかった。だけれども、私は貴方と結婚をして、貴方は私を、私は貴方を__と手を重ねた。それはどうだったのだろう。ふんわりと風のように通って____ゆく。


 色々あったね。私達だけの、重ねた思い出。月日、幾星霜__が巡り、過ごした日々。どれも特別だった。

 脳裡を早馬が毛を靡かせて駆けてゆく。思い出される情景に頬を緩ませ、頬の皺を深くする。

 心配で顔を染めて、震えてさ。生まれたての子鹿みたいでさ、濡らした犬かねぇ、例えるならば。きっと__情けなかったのかも。女の瞳は過去を思って揺れる。でもね、そんな貴方を見て、心の底から安心したんだよ。酷かった鼓動の音も聞こえないほどに。覚えているかな。懐かしいなぁ。もうとっくの昔の話だね。

 初めて顔を合わせた日、張り詰めた空気の中で苦しそうに和らげた貴方の、そのはにかんだ顔を見て、やっていけそうって思ったんだよ。貴方とならって、目の奥があつかったよ。

 私も貴方も、離れずにやってきた。それはこう……綺麗な言葉で結べたらいいかも。紡ぐなら、なんだろうね。今更、貴方と離れようとは思わない。きっとそれはどちらが先か、それだろう。私がいなくなったら、大丈夫だろうかねぇ。それが気がかりよ。先のことはわからないから。でも、貴方はこういう話嫌いでしょう?

 かこんとまた音がする。一口、二口、口を流れたのだろう。

 新聞を広げて、目を細めている。その姿はほんのり昔とは違う。背中も丸くなったかも。眼鏡の二つのレンズは額にあって、もう、おじさんみたいかな……?なんても聞いてやくれずに置かれている。

 水分は摂っているようだと、そこにはほっと胸を撫で下ろす。見慣れた姿勢に、見慣れた人間。その横顔は皺が刻まれているのが見える。それを見る女にも、同じように。ともに重ねた年輪。大木は……まだ早いかね。


 柔らかな光が窓から中へと道になる。幅を広げて照らされる木目の柱と床が目に映ってゆく。外の緑もなんだか若々しくダレスアップされて、可愛らしい。胸の内はあたたかくて、ぬくもりがぽかぽかと全身を(まさぐ)る。

 さあ、なんて声をかけようか。眩しくありませんか?暑いでしょう?カーテン、しましょうか?

 浮かぶ言の葉に、ゆっくりと目を閉じて、開ける。再びうららかな光景を目から身体の細胞へと届ける。すっと喉から通る空気が声になって__その耳まで届くことだろう。声は空気を振動させ、ばつたんこ。双眸をこちらに向けようと、ゆるりと動作する身体。壁に掛けられた時計と__静かに重ねられてゆくのだろう__これからも。

「お茶、おかわりしますか?」

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