「お前の刺繍など誰も欲しがらない」と捨てられた私ですが、騎士団長の軍服を繕ったら国宝級だと溺愛をやめてくれません
「——リーゼ。お前との婚約は、今日をもって破棄する」
その言葉は、春の陽光が差し込む応接間で、紅茶の湯気越しに投げつけられた。
ヴァイス侯爵家の嫡男、ディートリヒ・フォン・ヴァイスは、長い脚を組んだまま、退屈そうに言い放った。
金糸のような髪に、宝石じみた青い瞳。社交界の華と称される美貌の持ち主だ。
その完璧な唇が、ひどく冷たい形に歪む。
「理由を、聞いてもよろしいですか」
リーゼロッテ・フォン・エーデルシュタイン——リーゼは、膝の上に置いた手が震えるのを必死に押さえながら訊いた。
分かっている。理由など、とうに。
「お前は退屈だ」
ディートリヒは、窓の外に視線を投げたまま言った。
「刺繍、刺繍、刺繍。舞踏会に誘えば『今は繍枠を離せません』。夜会に同伴すれば、隅で針と糸を取り出す始末。社交界でお前の隣にいることが、どれほど俺の体面を傷つけているか——考えたことがあるか?」
——考えたことがあるか、ですって。
考えなかった日など、一日もなかった。
あなたの隣に立つに足る令嬢になろうと、どれほど努力したか。でもあなたは私が口を開くより先に別の女性に話しかけたし、踊りに誘ったのだって年に一度あるかないか。その一度も、途中で別の令嬢に目を奪われて、曲の途中で手を離されたこともあった。
退屈だったのは——どちらだったのでしょうね。
けれどリーゼは、そのどれも口には出さなかった。
「……申し訳ございません」
「謝罪はいらない。もう決めたことだ」
ディートリヒは立ち上がり、上着のボタンを直す仕草をした。鏡に自分の姿を映し、満足げに微笑む。
——出た。鏡。この人、私と話している最中に三回は自分の姿を確認する。ナルシストとはこういう生き物なのだと、五年かけて学んだ。
「ああ、そうだ。これを返しておく」
ディートリヒが無造作に放ったのは、一枚のハンカチーフだった。テーブルの上に滑り、紅茶のカップにぶつかって、染みが広がる。
リーゼが半年かけて繍い上げた、ヴァイス家の紋章入りのハンカチーフ。彼の誕生日に贈ったものだ。
「一度も使わなかった。悪いが、こういう田舎臭いものを持ち歩く趣味はないんだ」
侍女たちが、くすくすと笑った。
——田舎臭い。
あのハンカチーフの縁取りに使った銀糸は、エーデルシュタイン家に伝わる特注品だ。市場に出れば一巻きで金貨三枚はする。あなたが夜会で気前よく奢っている葡萄酒より、よほど値が張る。
けれど、そういう問題ではないことくらい分かっている。値段の問題ではなく——この人は、贈り物に込められた時間を想像する能力がないのだ。
「まあ、お前の刺繍は土産物屋にでも売ればいい。辺境の農民の嫁にでもなれば、重宝されるんじゃないか」
ディートリヒは、もうリーゼを見てすらいなかった。
鏡の前で襟元を正しながら、独り言のように続ける。
「つくづく思うよ。五年は長かった。お前といる時間は、本当に——何も残らなかった」
五年。
五年間、リーゼはこの人のために繍い続けた。
季節ごとの贈り物。紋章の入った手袋。寒い日のためのマフラー。
その全てが、引き出しの奥にしまわれていたことを、侍女伝てに知っていた。
——何も残らなかった。
その言葉だけは、さすがに堪えた。
一針に一時間かかる紋様もあった。指先が血で滲んだ夜もあった。
それを「何も残らなかった」と言えるこの人は——きっと、最初から何も受け取る気がなかったのだ。
「五年間、お世話になりました」
リーゼは、テーブルの上のハンカチーフをそっと拾い上げた。濡れた布を胸に抱く。紅茶の熱が、涙の代わりのように手のひらを濡らした。
——これは持って帰ります。あなたには勿体ないから。
背筋を伸ばしたまま深く一礼し、応接間を出た。
廊下に出て、角を曲がって、誰の目もないことを確かめてから——壁に手をついた。
泣かなかった。
泣いてたまるかと思った。
けれど、指先が震えて止まらなかった。
◇
三ヶ月後——北の辺境、グラオヴァルト領。
婚約破棄の後、リーゼの社交界での評判は地に落ちた。再婚約の申し込みは一件もなかった。
そんな折、辺境の騎士団から繍い手を求める依頼が舞い込んだ。
リーゼは迷わなかった。王都を離れることに、どこかで安堵している自分がいた。
もう、誰かの隣で「退屈」と言われなくていい。
グラオヴァルトは、王都から馬車で八日の距離にあった。
北の山脈を背負い、冬には腰まで雪が積もる。華やかさとは無縁の、けれど空気が澄み切った土地だった。
砦の門前に、一人の男が立っていた。
長身。広い肩幅。黒髪を無造作に後ろへ流し、灰色の外套を纏っている。
左頬に古い刀傷。眼差しは冷たい——というより、感情を表に出すことに慣れていない、そんな目だった。
そして。
その男が着ている軍服を見た瞬間、リーゼの職業的本能が悲鳴を上げた。
袖口はほつれ、肩の縫い目は裂け、紋章の刺繍は半分以上が解れている。襟元に至っては、明らかに別の布で場当たり的に継ぎ当てされていた。
——これは。この軍服は。冒涜だ。布に対する、針に対する、冒涜だ。
「ヴォルフガング・フォン・グラオヴァルト。騎士団長を務めている」
低い声だった。抑揚が少ない。けれど不快ではない。
風雪に磨かれた岩のような声。
「リーゼロッテと申します。本日より、軍服の修繕を担当させていただきます」
ヴォルフガングは、リーゼをまっすぐに見た。何かを値踏みするような目ではなく、ただ、じっと見ていた。
——ディートリヒとは正反対だ。あの人は鏡ばかり見ていたけれど、この人は目の前の人間を見ている。
「……王都から来たのか。わざわざこんな辺境に」
「はい」
「なぜ」
リーゼは一瞬だけ迷い、それから正直に答えた。
「……行くところが、なかったものですから」
ヴォルフガングは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。そしてすぐに視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「——そうか。なら、好きなだけいろ」
その言葉は素っ気なかった。
けれど、リーゼの耳には不思議と温かく響いた。
◇
翌日から、リーゼは仕事に取りかかった。
まず、ヴォルフガングの軍服を預かり——絶句した。
「……これ、何年着ているんですか」
「七年くらいだが」
「な、七年!?」
「前の繍い手のばあさんが引退してからは、団員が各自で繕っていた」
——各自で。騎士が。自分で。
どうりで。
継ぎ当ての布は色も素材もバラバラ。ボタンは二つ欠けて革紐で代用。裏地に至っては原形を留めていない。どこかの縫い目には、明らかに革手袋をしたまま針を通したような、信じられないほど大雑把な縫い跡があった。
——騎士が革手袋で繕い物。想像するだけで目眩がする。
だが——。
リーゼの指が、軍服の襟元で止まった。
「これは……」
紋章の刺繍。グラオヴァルト家の紋章であるはずのそれは、ほとんど解れて原形を失っていたが——その下に、微かに残っている。銀糸で施された、複雑な幾何学紋様。
リーゼは息を呑んだ。
これは——「守護紋」だ。
祝福の力を宿す古代の紋様。かつて王国の正規軍が用いていたとされる、身に纏う者に加護を与える魔法刺繍。技術の継承者が絶えて久しく、今では文献にしか残っていないとされている。
——いや。
リーゼは知っていた。
文献ではなく、祖母から。
リーゼの祖母は、かつて王宮の繍い手だった。幼いリーゼに、来る日も来る日も刺繍を教えた。
『いいかい、リーゼ。刺繍は飾りじゃない。祈りだよ。大切な人を守りたいと願う心が、針を通じて布に宿るんだ』
社交界では「退屈な趣味」と笑われた技術。
ディートリヒには「誰も欲しがらない」と切り捨てられた技術。
その技術が——ここで必要とされている。
リーゼの目に、静かな炎が灯った。
◇
それから三日三晩、リーゼは没頭した。
軍服を全て解体した。継ぎ当てを全て外し、裏地を張り替え、ほつれた縫い目を一つ残らず修繕した。
そして——守護紋を復元した。
祖母から受け継いだ技法で、一針一針、銀糸を通していく。
紋様の一本一本に意味がある。
気づけば朝になっていた。
また気づけば夕暮れだった。
食事を忘れ、眠りを忘れ、ただ針を運んだ。
三日目の夜。
最後の一針を刺し終えた時、ヴォルフガングが作業部屋に入ってきた。
「できました」
リーゼは軍服を掲げた。漆黒の生地に、銀糸の紋様が星のように浮かび上がっている。
グラオヴァルト家の紋章——蒼銀の狼が、まるで今にも駆け出しそうなほど精緻に繍い上げられていた。
瞬間——。
銀糸の紋様が、淡く光った。
守護紋が起動したのだ。
身に纏う者に加護を与える、古代の魔法刺繍。王国でこれを施せる者は、もういないとされていた。
「……なにが、おきてる」
ヴォルフガングの声が、微かに震えていた。
「これは守護紋です。祖母から受け継いだ技法で復元しました。……あの、お気に召さなかったでしょうか」
「気に召さないだと?」
ヴォルフガングは、一歩近づいた。
「……俺の部下は、三年前の魔獣討伐で七人死んだ。去年は四人だ。加護の失われた軍服では、辺境の瘴気から身を守れない」
その声は、低く、静かで、けれど熱を持っていた。
「お前が今、復元したのは——」
ヴォルフガングはリーゼの前に跪いた。
突然のことに、リーゼは目を見開く。
「俺たちの命だ」
リーゼの手に、ぽたりと涙が落ちた。
泣くつもりなどなかった。
なのに。
『お前の刺繍など誰も欲しがらない』
あの日投げつけられた言葉が、砕けていく。
ここに、欲しがってくれる人がいる。
ここに、自分の針が守れる命がある。
「……全員分、繍います」
リーゼは涙を拭って言った。
「騎士団全員の軍服に、守護紋を。——それが、私にできることですから」
ヴォルフガングは跪いたまま、リーゼを見上げた。あの無表情な灰色の瞳に、微かな光が宿っていた。
「——頼む」
たった二文字。
けれどリーゼには、五年間で一度も貰えなかった言葉よりも、ずっと重く響いた。
◇
それから一ヶ月。
リーゼはグラオヴァルトの砦に寝泊まりしながら、騎士団員の軍服を一着ずつ繍い上げていった。
効果は劇的だった。
守護紋を施した軍服を着た騎士たちの戦闘力が、目に見えて向上した。辺境の過酷な環境による慢性的な体調不良——瘴気酔い、関節の痛み、原因不明の倦怠感——が、嘘のように改善されていった。
リーゼはいつの間にか、砦に欠かせない存在になっていた。
団員たちの「リーゼ嬢」がいつしか「リーゼさん」になり、「うちのリーゼ」になっていた。
そして——リーゼ自身は気づいていなかったが、ヴォルフガングの変化に、団員たちはとっくに気づいていた。
「団長、最近やたら砦にいますよね」
「……巡回の報告書を書いている」
「報告書って、繍い手の作業部屋の隣の部屋で?」
「……うるさい」
気づけば、リーゼの作業部屋には毎晩のように温かい飲み物が置かれるようになった。
誰が置いたのか、リーゼが尋ねても団員たちは肩をすくめるばかりだった。
ただ、カップの持ち手にだけ、不器用に布が巻かれていた。持った時に熱くないように。
そんな気遣いをする繊細さを持ちながら、自分の軍服は七年間ボロボロのまま着続ける人を、リーゼは一人しか知らなかった。
ある朝、作業部屋の前に薪が積まれていた。山と積まれた薪の上に、走り書きの紙切れが一枚。
『朝冷える。使え』
——字が、汚い。
剣を振るう手で書いたのだろう、力任せの筆跡だった。
けれど、その紙切れをリーゼは繍枠の裏に大切にしまった。理由は自分でもよく分からなかった。
そしてある夜のこと。
「夜が遅い」
作業部屋で針を運んでいたリーゼの隣に、ヴォルフガングが黙って座った。
手には、湯気の立つカップが二つ。
——ああ、やっぱりこの人だったのだ。
「……団長?」
「身体を壊されては困る。うちの繍い手は、お前一人だ」
ぶっきらぼうに言って、カップをリーゼの前に置く。蜂蜜入りのホットミルクだった。
「……甘いの、お好きでしたっけ」
「俺じゃない。お前が甘いものが好きだと、ルーカスが言っていた」
——わざわざ部下に聞いたんだ。直接私に訊けばいいのに。
リーゼは思わず笑った。
ヴォルフガングは、照れたように視線を逸らした。
——この人は。
感情を表に出すのが下手なだけで、いつも見ている。
リーゼが食事を摂ったか。眠れているか。指に針の傷が増えていないか。
言葉にはしない。けれど、行動で示す。
それはディートリヒとは正反対の——不器用で、けれど確かな優しさだった。
「団長」
「……ヴォルフでいい」
「え?」
「団員は皆そう呼ぶ。お前も、うちの一員だろう」
うちの一員。
その言葉が、冬の辺境の夜にじんわりと温かかった。
「……ヴォルフさん」
「なんだ」
「ありがとうございます。この軍服たちを繍えて——私、今、とても幸せです」
ヴォルフガングは黙ったまま、ホットミルクに口をつけた。
耳が、少し赤かった。
◇
変化は、王都からやってきた。
グラオヴァルト辺境騎士団の戦果報告が、異例の注目を集めたのだ。
魔獣討伐の成功率が前年比で三倍。死傷者はゼロ。辺境の瘴気汚染域の縮小速度が、他のどの騎士団よりも速い。
調査の結果、守護紋の存在が明るみに出た。
失われた国宝級の技術の再現——その報せは、王都の社交界を瞬く間に駆け巡った。
そしてその繍い手が、かつてディートリヒ・フォン・ヴァイスが「退屈」と切り捨てた元婚約者であるという事実も。
◇
その日、グラオヴァルトの砦に、招かれざる客が現れた。
金糸の髪に、仕立ての良い外套。泥道を歩くのに向かない磨き上げた革靴。馬車から降り立ったディートリヒ・フォン・ヴァイスは、砦の門を見上げて顔をしかめた。
「こんな僻地に……本当にいるのか」
作業部屋の扉を開けた瞬間、ディートリヒは足を止めた。
リーゼが繍枠に向かっている。
窓から差し込む光の中で、銀糸を一針ずつ運んでいる。
三ヶ月前に見た時より、少し日に焼けていた。髪は簡素に一つに結ばれ、指先には幾つもの針の跡がある。
社交界にいた頃の、怯えたように俯きがちだった令嬢の面影はなかった。
「——久しぶりだな、リーゼ」
リーゼは顔を上げた。
一瞬だけ、息が止まる。
けれど、それだけだった。あの心臓を掴まれるような痛みは、もうなかった。
——ああ。この人、まだ鏡みたいに磨いた靴を履いている。辺境の泥道に、その靴で来たの。
「……ディートリヒ様。どうして、こちらに」
「どうしてもこうしても、お前に用があるから来たんだ。話がある。戻ってこい、リーゼ」
ディートリヒは作業部屋に踏み込み、リーゼの前に立った。
「守護紋の件は聞いた。大したものだ。正直、見直した。だからこそ言う——お前の技術は、こんな辺境で埋もれさせるには惜しい」
——「見直した」。
この人は今、褒めているつもりなのだろう。
でもその言葉の裏にあるのは「以前は見下していた」という自白だ。そしてそのことに、きっと気づいてすらいない。
「婚約破棄の件は、俺の判断が早計だった。認めよう。だが考えてみろ、お前の才能はヴァイス侯爵家でこそ最大限に——」
「お断りします」
リーゼは静かに、しかしはっきりと言った。
ディートリヒが目を見開く。一瞬の間があった。そして、その整った顔に明確な苛立ちが浮かんだ。
「……何?」
「お断りします、と申しました」
「話を聞け。俺は反省していると言っているんだ。お前の技術を正当に評価すると——」
「私の技術を評価してくださっているのは、嬉しく思います。ですが——」
リーゼは立ち上がり、ディートリヒの目をまっすぐに見た。
「あなたが評価しているのは『守護紋の技術』であって、私ではありません」
「——何を言って」
「五年間、あなたに繍い続けました。一度も使っていただけませんでした。私の誕生日の贈り物を、紅茶で汚して返されました。あの時のあなたの目に、私は映っていなかった」
声は震えなかった。恨みも、怒りもなかった。
ただ——事実を述べているだけだった。
「今、私の刺繍に価値が生まれたから戻ってこいと仰る。でもそれは、あなたが私を見ているのではなく、私に付随する技術を見ているだけです。——それは五年前と何も変わっていない」
「リーゼ、お前——」
「お引き取りください」
ディートリヒの顔が、朱に染まった。
侯爵家の嫡男が、伯爵令嬢に面と向かって拒絶される。彼の人生において、おそらく初めてのことだった。
「……っ、分かっているのか? お前がどれほど——」
「——彼女に用件は伝わったようだが」
低い声が割って入った。
作業部屋の入口に、ヴォルフガングが立っていた。
壁に肩を預け、腕を組んだまま。いつからそこにいたのか分からない。その灰色の瞳が、静かにディートリヒを見据えている。
「グラオヴァルト——」
「うちの繍い手に断られたなら、帰るといい。辺境の風は、王都の坊ちゃんには堪えるだろう」
「……っ、貴様、侯爵家の嫡男に向かって——」
「ここは俺の管轄だ。客人であれば歓迎するが——繍い手を困らせるなら、ただの不審者だ」
ヴォルフガングの声に怒気はなかった。
ただ、凪いだ湖面のように静かで——だからこそ、底知れない威圧があった。
辺境で十年、魔獣と対峙し続けた男の眼力に、ディートリヒは無意識に半歩後退った。
「っ……覚えていろ」
捨て台詞を残し、ディートリヒは踵を返した。
だが——砦の門を出た瞬間、さらなる屈辱が彼を待っていた。
軍務省の視察官たちが、門前で談笑していた。
彼らは守護紋の調査のために訪れた正規の役人であり、ディートリヒとは無関係だった。
その中に、社交界でも顔の広い軍務省の次官——フリードリヒ・フォン・ヘルダーリンがいた。
「おや、ヴァイス侯爵家のご子息ではありませんか。こんな辺境に、どのようなご用件で?」
「……視察だ」
「視察? 失礼ですが、ヴァイス侯爵家には辺境の軍務に関する管轄権はなかったかと」
ヘルダーリン次官は穏やかに笑った。社交界の上位に立つ者特有の、丁寧さの中に刃を忍ばせた笑みだった。
「まさか——守護紋の繍い手を引き抜きに?」
「……っ」
「おやおや。確かあの方は、あなたの元婚約者でしたね。『刺繍しか取り柄のない退屈な令嬢だ』と、去年の秋の夜会で仰っていたのを覚えていますよ。なかなか大きな声でしたから」
視察官たちの間に、失笑が漏れた。隠しもしない。
「その『退屈な刺繍』が王国軍の根幹を変え得る国宝級の技術だったとは、皮肉なものですな。——ヴァイス侯爵家の目利きの程度が知れる」
「黙れ……!」
「ああ、申し訳ない。これは公式の場での発言ではありませんので、お気になさらず。——ただ」
ヘルダーリンは笑みを消した。
「繍い手エーデルシュタイン嬢の身柄は、現在グラオヴァルト騎士団長の庇護下にあり、王家が直接交渉を行う案件です。一介の侯爵家が横から手を出せる段階は、とうに過ぎている」
ディートリヒの顔から血の気が引いた。
「お分かりですね? もうあなたの手が届く場所に、あの方はいないのです」
ディートリヒは何も言えなかった。
磨き上げた革靴が、泥を跳ねた。砂利を踏みしめる足音だけが、惨めに砦に響いた。
◇
ディートリヒが去った後。
作業部屋に残されたリーゼは、しばらく黙って立っていた。
手は震えておらず、涙もなかった。ただ、長い夢から覚めたような、不思議な心地だった。
「怖かったか」
ヴォルフガングが、ぼそりと訊いた。
まだ入口に立ったままだった。リーゼが嫌がるかもしれないと思ったのか、近づいてこない。
——この人は、いつもそうだ。
「いいえ。……もう、怖くはありません」
「…………」
「ヴォルフさんがいてくれたから、ではなくて。……いえ、それもあるんですけど」
リーゼは、自分の手を見下ろした。
針の跡だらけの、お世辞にも美しいとは言えない指先。けれど、この手が繍い上げたものが、人の命を守っている。
「私、やっと分かったんです。あの人に何を言われても——もう、何も壊れないって」
ヴォルフガングは黙ったまま、リーゼの前に歩み寄った。
そして、上着の内ポケットから——小さな布を取り出した。
「……これは」
一枚の布。
そこに、見慣れた紋様が繍われていた。
グラオヴァルトの蒼銀の狼と——エーデルシュタインの白銀の針。二つの紋章が、寄り添うように組み合わさっている。
明らかに素人の手による、不揃いで、拙くて、けれど一針一針に途方もない時間がかけられた刺繍だった。
「……ヴォルフさん、これ、まさか自分で——」
「…………」
「い、いつの間に……!」
「……夜。お前が寝た後に。ルーカスに基本だけ教わった」
あの武骨な手で。剣ダコだらけの指で。
婚姻紋を、繍っていた。
「——俺は言葉が下手だ。気の利いたことは言えない」
ヴォルフガングは、リーゼの手をとった。拙い刺繍の布を、二人の手のひらの間に挟むように。
「だが、お前がここにいてくれることが——俺には」
言葉が、詰まった。
灰色の瞳が、微かに潤んでいた。
この男が、こんな顔をするのを見たのは初めてだった。
「——お前がいないと、駄目なんだ」
不器用な告白だった。
飾り気のない、ただ真っ直ぐな言葉。
五年間、美辞麗句を並べながらリーゼを見なかった男がいた。
今、言葉にならない想いを、針と糸で伝えようとした男がいる。
リーゼの視界が、滲んだ。
「……ヴォルフさん」
「……なんだ」
「この婚姻紋、少しだけ直していいですか。ここの目が一つ飛んでます」
「…………それは返事か?」
「——はい」
リーゼは、泣きながら笑った。
ヴォルフガングの大きな手が、不器用に——本当に不器用に——リーゼの頭にそっと触れた。
剣ダコだらけの、荒れた手。
けれど触れ方は、信じられないほど優しかった。
「——もう、どこにもやらない」
◇
秋の穏やかな日に、グラオヴァルト領の小さな礼拝堂で、ささやかな婚礼が執り行われた。
花嫁の白いドレスには、銀糸の守護紋が繍い込まれていた。
——私の最高傑作、と花嫁は笑った。
花婿の黒い礼装には、二つの婚姻紋が並んでいた。
花嫁が仕上げた精緻な紋様と、花婿が夜な夜な繍った不格好な紋様。
どちらも直さず、そのまま並べて縫い付けた。
式に出席した団員の一人が、こっそり隣に耳打ちした。
「なあ、聞いたか。ヴァイス侯爵家のご子息、ミリアーナ嬢との婚約が破談になったらしいぞ」
「ああ。密通が発覚したとかなんとか。侯爵家、完全に信用を失ったそうだ」
「自業自得だな。——で、うちの団長は幸せそうじゃないか」
「しっ、聞こえるぞ」
リーゼの耳にも、その囁きは届いていた。
もう、どうでもいいことだ。
花婿は誓いの言葉の代わりに、花嫁の手を取って言った。
「——一生、頼む」
不器用で、短い言葉。
けれど花嫁には、それだけで十分だった。
窓の外では、辺境の澄んだ風が吹いていた。
誰にも必要とされないと思っていた針が、たくさんの命を守り、たった一人の心を繍い止めた。
「ヴォルフさん。……これからも、あなたの軍服は私が繍いますね」
「ああ。——お前以外には、任せないと誓おう」
銀糸の紋様が、祝福するように光っていた。




