ep.189 白露はまだ、名を名乗らない
ep.177「白露はまだ、名を名乗らない」
(1話完結・白露視点)
夜の街は静かだった。 宿の裏庭で、白露は洗濯物をたたんでいた。 月明かりが石畳を照らし、風が乾いた布を揺らす。
ふと、遠くから子どもの笑い声が聞こえた。 昼間、旅団の若手たちが街の子どもたちと遊んでいたのを思い出す。
「……無防備すぎます」 白露は小さくつぶやいた。
そのとき、背後から声がした。
「なあ、白露。お前、昔はもっと……いや、なんでもねぇ」
ネイヴだった。 工具袋を肩にかけ、いつものように火薬の匂いをまとっている。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」 白露は布をたたむ手を止めずに言った。
「……昔の口調に戻ってたぞ。さっき、子どもに話しかけたとき」
白露の手が、ほんの一瞬だけ止まった。 だがすぐに、何事もなかったように布を重ねる。
「気のせいです。私は、今はただの使用人ですから」
「ふぅん……ま、そういうことにしとくか」
ネイヴはそれ以上何も言わず、裏口の扉に寄りかかった。
しばらく沈黙が続いたあと、白露がぽつりとつぶやいた。
「……“姫”というのは、感情を見せてはならないものです。 誰かの前で泣いたり、笑ったり、怒ったりしてはいけない。 だから私は、そういうものを……捨てました」
ネイヴは何も言わなかった。 ただ、夜風がふたりの間をすり抜けていった。
「でも」 白露は、たたんだ布を胸に抱えたまま、空を見上げた。
「……あの子たちの笑い声は、少しだけ、懐かしかったです」
それは、誰にも聞こえないほど小さな声だった。 けれどネイヴは、ふっと目を細めた。
「……そうか」
それだけ言って、彼は扉を開けて中へ戻っていった。
白露は最後の一枚をたたみ終え、静かに立ち上がる。 その背筋は、いつも通りまっすぐだった。
けれどその足取りは、ほんの少しだけ、柔らかかった。




