ep.163 風と貨幣と、はじめての買い物
第2部 第4章:風と貨幣と、はじめての買い物
フェルニックスは、ギルドの扉の前で立ち止まった。 朝の風が、彼のフードをふわりと揺らす。 小さな体に似合わぬ大きな帳簿を抱え、 彼は一度、深く息を吸い込んだ。
「取引こそが、我らの未来をつなぐ」 それは、彼が幼いころから聞かされてきた言葉。 力ではなく、知恵と信頼で生きる道を選んだコボルト族にとって、 貨幣はただの金属ではない。 それは、他種族と対等に語り合うための“共通語”だった。
ギルドの一室には、すでに数人の若者たちが集まっていた。 商人見習いの紗代、初心者冒険者のラディ、リンダ、セシル、ルーク。 皆、少し緊張した面持ちで、木製の椅子に腰かけている。 進行役のギルド職員・オデッサが、軽やかな声で場を和ませた。
「さあ、今日は“貨幣の基本”について学びましょう。 講師は、商業ギルドの推薦で来てくれたフェルニックスさんです」
小さな足音が響き、フェルニックスが前に出る。 彼は一礼し、帳簿を机に置いた。
「皆さん、こんにちは。今日は、“肉球硬貨”についてお話しします」 彼の声は少し震えていたが、目は真剣だった。
「まず、これが木貨。表には肉球の刻印、裏には“1NkQ”の文字。 これは、パン1個の値段です」
「パン1個が……1NkQ?」 リンダがぽつりとつぶやくと、セシルが「安いのか、高いのか……」と首をかしげた。「えっ、パンってそんなに高いの!?」ラディは驚いた声を出した。
フェルニックスはうなずきながら、次々と硬貨を並べていく。 「木貨は日常生活の基本単位。 3NkQでお酒1杯、5NkQで安宿に1泊できます。 次に石貨。10NkQで初級魔法を1つ学べます。 50NkQは、初心者向けの依頼報酬の目安です」
「魔法って、そんなに高いの!?」 ルークが目を丸くする。 「中級魔法は100NkQ、つまり銅貨1枚。 文官の平均月給は300NkQ、武官は500NkQ。 銀貨1000NkQで上級魔法、金貨1万NkQで特殊依頼……」 フェルニックスの語りは熱を帯びていく。
「そして、白金貨。10万NkQ。 これは、国と国とが取引を交わすときに使われる、最上位の硬貨です」
講座の後半、フェルニックスは少し声を落とした。 「我らコボルト族は、かつて力で奪われ、追われてきました。 でも今は違う。取引を通じて、信頼を築き、未来をつくる。 そのために、貨幣の意味を知ることが、第一歩なのです」
静かな拍手が起こった。 休憩時間、紗代がそっと声をかける。
「……フェルニックスさん、すごくわかりやすかったです」 彼は少し照れながらも、誇らしげにうなずいた。
そのとき、ふいに風が吹き抜けた。 開け放たれた窓から、春の香りが流れ込む。 ふと視線を上げると、通りの向こうに三人の姿が見えた。
咲姫、紗綾、果林。 三人は軽やかに歩きながら、こちらに手を振っている。
「お勉強、がんばってるのです~!」 咲姫の声が、風に乗って届いた。 紗綾は静かに微笑み、果林は「またねー!」と元気に手を振る。 そして三人は、風のように通り過ぎていった。
午後は実地体験。 市場へ向かった紗代たちは、実際に買い物をしてみることにした。
「このパン、1NkQ……あ、これください!」 リンダが木貨を差し出すと、店主がにっこり笑ってパンを渡す。 「はい、お釣り2NkQね。ありがとさん」
「お釣り……ちゃんともらえた……!」 リンダは硬貨を握りしめ、うれしそうに笑った。
紗代は、果物を選びながら値段を計算していた。 「3NkQのリンゴを2つで6NkQ、あと……」 フェルニックスがそっと後ろからのぞきこみ、 「うむ、正解だ」と小さくうなずいた。
夕暮れ。 ギルドの食堂では、今日の講座の参加者たちが集まり、 木のテーブルを囲んで夕食をとっていた。
「今日、ちょっとだけ大人になった気がする」 誰かがつぶやき、笑いがこぼれる。
フェルニックスは、少し離れた席からその様子を見つめていた。 彼の手の中には、木貨が1枚。 それは、講座の謝礼として渡されたものだった。
「……これが、つながりの証か」 彼はそっと、肉球の刻まれた面を見つめながら、 静かに目を閉じた。
こうして、風に導かれた一日は、やさしく幕を下ろした。




