第四話 過去の記憶と優しい声
漆黒の闇の中、私は七歳前後の幼い少女になっていた。白い着物を着た私は顔をぐちゃぐちゃにしながら泣いていて、その様子を見ているだけで胸が痛い。少女は私であるのに姿が見える矛盾を感じても、これは夢だと思えば理解できる。
泣き続ける少女に何があったのか聞きたくても声は出ない。
(どうしたの?)
『雨をたくさん降らして欲しいって、龍神様にわたしが願ったの』
地面が乾きヒビが入った広大な田畑の光景が浮かび上がった。わずかに残った川の水を、質素な和服姿の人々が奪い合っている。絵や写真でしかみたことのない河原やが生々しい。
「巫女様、どうか雨を降らせて下さい」
「龍華様、龍神様にお祈り下さい。このままでは村が全滅してしまう」
少女を取り囲む大人たちが口々に願う。一体、この少女に何ができると言うのか。
『わかった。龍神様にお願いしてみる』
頷いた少女は龍神が宿る岩に向かって一昼夜祈り続け、やがて大粒の水滴が大量に空から降り出した。
(……これが、雨?)
見上げた空に黒く渦巻く雲は時折不気味に光り、光の矢が地面に落ちる。水滴はごうごうと音を響かせながら地面を叩き、渦巻きながら流れていく。
本や絵で想像していた優しい透明な雨とは違う、凄まじい光景に心が委縮していく。雨とは暗く恐ろしいものという印象が胸に刻まれていく。
最初は喜んでいた人々も止まない雨に不安を感じて恐れ始め、ついには川が氾濫して家や人が水に沈んだ。
今度は怒りの形相の人々が、震える少女を取り囲む。
「早く雨を止めろ! お前は加減を知らないのか!」
「お前のせいで、村が水に流された!」
酷い言い草だと思う。幼い少女に加減なんて理解できる訳がない。素直に言われるままに願った結果を責める資格が誰にあるのだろうか。
やがて幼い少女は、止まない雨を鎮める為の人柱として泥の中に埋められてしまった。
『わたしは悪いことをしてしまったの? 人がいっぱい死んだのはわたしのせいなの?』
泣き続ける少女を抱きしめると、溶けあって一つになった。悲しみと胸の痛みで涙が目から溢れる。身勝手な人々の仕打ちに涙が止まらない。人はどうしてここまで残酷になれるのか。
怒りと憎しみの感情と同時に、胸の辺りから黒い靄のようなものが湧き出てきた。黒い靄が徐々に私を包み込んでいくと、怒りと憎しみが増幅する。
『許せない。……絶対に許さない。……人間なんて信じない』
額が熱く、頭が割れるような痛みが起きた。何かが、怒りが額を押し破ろうとしている。この痛みを私に与えた者たち、そしてこの世界に対するどろどろとした憎しみがこみ上げてきた。
『殺さなければ、すべてを破壊しなければ。この怒りは、この痛みは治まらない』
怒りで頭が爆発してしまいそうな熱を帯びた時、ひやりとした腕が私を背中から包んだ。
『りゅうか、これは過去の記憶だ。鬼になってはいけないよ。鬼になってしまったら、私の嫁にはなれないからね』
耳元で囁く優しい声とひやりとした体温が、極限まで高まっていた熱を解いていく。ああ、これはあの人の声。……ライとは違う声。
『人が死んだのは、お前のせいではないよ。あの者たちが願ったからだ。身勝手な願いが自分たちに返っただけ。今はゆっくり眠りなさい。……これからはりゅうかが好きなことを楽しんで、笑って生きられるように願っているよ』
胸から湧き上がった白い光に晒された黒い靄は密やかに消え去った。
『新しい迎えの使者を送るから、早く私の元においで』
優しい囁きを残して、背後から抱きしめていた誰かが消えた。
◆
けたたましい目覚まし時計の音で目が覚めた。布団から手を伸ばして時計を黙らせて、もう一度布団に潜り込む。
「あー、もう朝かー」
時刻は午前六時。
「……もっと一緒にいたかったな。…………ん? 誰と?」
誰かの夢を見ていたように思ったのに、内容が全然思い出せない。目元の違和感に手をやると、ざらりとした涙の跡。悲しい夢を見ていたのかもしれないから、忘れて正解なのだろう。
起き上がった体は妙に軽くて、すっきりと清々しい。勢いよくカーテンを開け、窓を開くとご近所の年上女性と至近距離で目が合った。相手も私も完全に寝起き姿。花柄の寝間着姿の女性の頭にはカーラーが巻かれているし、私の髪はぼさぼさで、大きめに作ったパジャマがはだけて肩がずり落ちている。そろそろ捨てないとと思いつつ寝心地が良くて捨てられないパジャマは、ピンク色が褪せてくたくた。
建物の間隔が狭すぎて、こんな事故は日常茶飯事。店の窓の景色を優先した結果、私室の窓はご近所の窓と至近距離。
「あ、お、おはようございます」
「お、おはようございます。さ、さわやかな朝ですね」
いきなり窓を閉めてしまう訳にもいかず、お互い乾いた笑いを上げながら挨拶を交わすしかなかった。
◆
業務用のアイロンは、その重さを使って布をプレスする。地下都市では希少な鉄アイロンは父から受け継いだもので、何度も修理して使い続けている。
アイロン台の上、天井から下がるフックに掛かる水タンクはスチームを発生させるためのもの。今日はスチームを使わないから、タンクは空。
縫い合わせて裏返した護り袋を、当て布をしながらアイロンをかけていく。しっかりとプレスして角をきっちり出すと清々しい。
長方形の袋が出来てから、型紙に合わせて入れ口の端を三角に折ってプレスすると、護り袋の形が見えてきた。
一つ一つ、しっかりと形を整えて両面を確認しながら、表になる方を決める。夜の流水に桜が散りばめられた柄は上下が無いデザインなので、綺麗に見える方を選ぶ。
百と三つの袋をカゴの中に並べ、次は紐の準備をしなければと手を念入りに洗う。作業の間中、何度も手を洗うのは布や材料を汚さない為。白や淡い色の布を扱う時は、洗う回数がどうしても増える。
作業台を濡れた布巾と乾いた布巾で拭いて、また手を洗う。型紙用の茶色のクラフト紙を敷いて、オフホワイトの紐の束を乗せる。
前回制作分より少し長めに紐を切りそろえていく。初めて作った前回は、紐の長さがギリギリで、作業し辛かった。貴重な材料と作業のしやすさとを考えて計算した長さの違いは一センチ。小さな物を丁寧に作る時には、たった一センチが重要だったりすることもある。
雨戸まで締め切った窓の外は、ごうごうと音を立てて強い風が吹いていた。今日は地下都市の循環空気システムの点検日。立っていられない程の強い風が吹くので人々は家の中にいることを求められ、役所も会社も商店も学校もすべてお休み。病院ですら患者の受け入れを止め、万が一にも怪我や病気になった時は、自宅待機が求められる。手遅れになって死ぬ人がいても、地下都市全員の命の維持が最優先。火事が起きた場合は、点検が止まって他の日になるので、人々は火事を出さないようになるべく火を使わず、細心の注意を払って生活している。
個人の命よりも、多数の人々の命が優先されるという地下都市での大原則が理解されなくて、個人が好き勝手に行動して滅びた都市もあると学校で習った。
紐は二重叶結び。願いが叶うという意味が込められた、日本に昔から伝わる結び方。手早く結びながらも、丁寧さは忘れない。
強い風の音の中、私は作業に没頭していった。
◆
ある日の午後、店の扉が開いて軽やかな鈴が鳴った。店に入ってきたのは、エンジとベージュの市松模様の着物姿の淑やかな美女。右腕には畳まれた白い布、左手には重そうな荷物を包んだ鉄紺色の風呂敷を下げている。
「こんにちは、楓雅さん」
楓雅革細工店の店長であり、職人でもある楓雅 夜美は、何度もコンクールの賞を受けていて、その腕前が他の地下都市にも広く知られていた。
はっきり聞いたことはないけれど、二十八歳くらいだと勝手に思っている。緩く結い上げた黒髪には、繊細な花々の彫刻が施された象牙色のかんざしが留まっていて艶やか。
「こんにちは。瑠香ちゃん、縫い物お願いしてもいいかしら」
「いいですよー」
楓雅はミシンを使わず、手縫いで商品を仕上げる。付属品や日用品を縫う必要がある時は私の店へと依頼がやってくる。
「綿の布が手に入ったから、枕カバーとシーツをお願いしたいの。サツマイモ五個でどうかしら?」
楓雅が下げていた風呂敷包みから、大きなサツマイモが現れた。
「やったー! ありがとうございます! 縫います、縫います!」
久々に焼きイモが食べられると思うと、嬉しくなってしまう。ライと一緒に食べるなら、お洒落にスイートポテトにした方がいいかも。
ジャガイモと違ってサツマイモは主食として認められていないから、野菜のチケットで交換することになる。毎日のメニューを考えるとどうしても葉物野菜を優先的に選んでしまうので、自分で買うことは滅多にない。
地下では野菜は工場で栽培されていて、サツマイモを現金で買おうとすると物凄く高額になる上に、そもそも食料品店に入荷していないことも多い。枕カバーとシーツを縫う作業量ならサツマイモ中サイズ三個が相場。楓雅は気前良く倍近い対価を払ってくれる。
「いつもサツマイモでごめんなさいね。毎月、現金とサツマイモで支払うお客さんがいるのよ。ありがたいんだけど、食べきれなくて」
「とっても美味しいですから、嬉しいです」
サツマイモだけでなく、毎月注文があるなんてうらやましい。とにかくとにかくうらやましい。そんな思いが顔に出てしまったのか、楓雅が苦笑する。
「そのお客さんが注文してくれるのは、作業に使う革手袋……消耗品なのよ。だから毎月」
「楓雅さんの技術を使って作業用の手袋? 何だかもったいないですね」
「でもね、毎回ちゃんと作らないとって思うの。私の手袋を使って怪我とかしないようにって気を遣うから、大変といえば大変ね」
「だから信頼して注文してくれるんですね。いいなー」
話を聞けば聞く程、うらやましくなってきた。
「私も信頼してもらえるように頑張りますっ。まずはこの枕カバーとシーツからっ」
「あら。すでに私は瑠香ちゃんをとっても信頼してるわよ。技術も人柄も」
楽しそうに笑う楓雅は、やっぱり美人。大人の女性の魅力もうらやましい。
一つ一つの積み重ねが大事と心の中で呟いて、私は楓雅と笑い合った。
◆
店の外に出ると道を挟んで店が並んでいる。五十件の小さな店がぎゅうぎゅうに集まる商店街は賑やか。新しく店を作る際には厳正な審査が行われて、似た業種のない場所が指定されるから、競合する相手はいない。
申請時に三カ所が提示され、私は見晴らしの良い高台にあるこの商店街を選んだ。店の窓から、空が綺麗に見えたのが決定打。他の場所では、窓の外は建物だらけで空は小さく見えた。
物の生産が最小限に抑えられている地下都市では、飲食店以外の店頭に並ぶ商品はまばら。買い物をするのではなく、立ち話をするだけのグループが多いのは、どこの商店街でも同じ。
店頭や店内で、人々の明るい笑い声が聞える。道の真ん中に出来た人だかりの中央には丸いテーブルと椅子が置かれていて、中年男性と少年が将棋を指していた。大昔は人工知能との将棋の対局が流行ったこともあったらしい。電子計算機時代は勝てたのに、量子計算機を使った人工知能にはどうやっても勝てないと、結局は人との対局に戻った。
対局を見る大人も子供も、神妙な面持ちで二人の指し手を見守っている。子供の頃は純粋に勝負を見つめるだけだったのに、成長した今は裏で賭けが行われてると知っているから、大人たちの真剣な表情が可笑しくみえる。
地下都市では身を持ち崩すような高額の賭博は法律で禁止されていて、一度の違反で最下層送り。一方でお酒やお菓子を掛ける程度の賭博は許されている。二百年前の地上世界にあった競馬や競輪は一度は途絶え、一部の地下都市で復活を遂げて細々と続いているらしい。
「瑠香ちゃん、お出かけかい?」
「はい。図書館まで」
借りた本の返却期限はまだまだ残っているけれど、内容が面白くてすぐに読んでしまった。続きが早く読みたくて、休業日が待ち遠しかった。
「今日も可愛い服だねぇ。いつか作ってもらいたいねぇ」
「ありがとうございます。いつでも大歓迎です」
声を掛けてくれた中年女性はいつもこなれた着物姿。もしも作らせてもらえる機会があれば本当に嬉しいと思う。
「気を付けていってらっしゃい」
「いってきます」
明るい笑顔に見送られ、私は図書館へと歩き出した。