第三話 悪しき闇の色
切った布を表裏に折ってミシンを掛ける。踏板を足で前後に踏むと、針が上下を始めて、スピードを上げれば心地よいリズムが店の中に響く。百年以上前に作られた足踏みミシンはまだまだ現役。単純な構造が理由なのか、この二年使い続けていても故障することはない。
両親が営む洋裁店には電動ミシンと足踏みミシンの両方があったのに、二人とも足踏みミシンばかり使っていた。
私も電動ミシンより足踏みミシンが好き。電動ミシンは早く縫えるけれど、大きな音がするし振動が壁を伝わって近所にまで響く。開店した時、ミシン屋に勧められてお試しで置いてみたら酷い目にあった。
足踏みミシンなら割と静かだし、電力不足で電気の供給制限があっても縫うことができる。地下都市では主に地熱で発電していて、一定の発電量はあっても中央支柱の運用状況で電力制限が時々起きる。
中央支柱は、地下世界を物理的に支えるだけでなく量子計算機の機能も兼ねている。この地下世界の環境を人が快適に住めるように制御することが最優先事項。予備を含めて七台の量子計算機が集約されている。
店の扉が開いて、軽やかに鈴が鳴った。やっとお客が来たと椅子から立ち上がって振り返ると、そこには幼馴染の都秋 祐成の姿があった。茶色い髪に茶色い瞳。すらりと背が高く、カジュアルな服装が似合う。
「祐成? どうしたの?」
「よう。悪いが何も聞かずに、この本を持ってくれ」
どことなく緊張した面持ちで、祐成は下げていた鞄から取り出した革表紙の本を差し出した。
「また? ま、いいけど」
古ぼけた焦げ茶色の本は、受け取るとずっしりと重かった。サイズはA5より一回り大きくて、厚さは五センチほど。
「開いたほうがいいの?」
「ああ」
何か訳ありと思っても、何も聞かないことが昔からのお約束。子供の頃から、こうして祐成に何かを持たされたり、掃除させられたりすることは多々あった。
よくよく考えると、私がライに対して積極的に何か聞こうと思えないのも、祐成のせいかもしれない。好奇心はあっても他人の事情には踏み込まない、聞いてはいけないと心の中でブレーキがかかってしまう。
「あれ?」
本はページが張り付いたようで全く開かない。傷つけないようにと注意しながら指で探っても、開く箇所が無い。
「やっぱ無理か……」
表情をこわばらせた祐成が差し出す手に本を戻そうとした途端、何もしていないのに本が開いて強い風が吹き荒れる。髪が風にあおられ、書類や布が舞い上がって部屋の中を渦巻く。
「ちょ、何これっ?」
「本を閉じろ!」
祐成の叫びに応じて本を閉じようとしてもびくともしない。嵐のような風は強さを増し、じりじりと作業台に置かれたナイフや裁ちバサミが動く。刃先にカバーが付いていても危ないし、型紙を押さえる文鎮は金属製でとても重い。
「祐成! ハサミとか押さえて!」
両手が本から離れない私は動けない。祐成が顔を腕で庇い暴風に逆らいながら作業台へと進む。風は強さを増し、書類が私の頬を掠めて血が滲む。
「だ、誰か助けてっ!」
このままだと祐成も私も怪我をしてしまう。恐怖の中で悲鳴を上げると、目を閉じた私の背中を包み込むように誰かが抱きしめた。ひやりとした白い指が、頬の傷を撫でると痛みが消える。
「……ライ?」
「瑠香、私がいるから落ち着いて。息を吸って、吐いて」
吹き荒れる嵐の中、言われるままに呼吸する。
「恐怖は闇の力になる。大丈夫。何も怖いことはないよ」
「で、でも……」
本からは強い風が吹き出し続けているし、手が張り付いてしまったようで本から離れない。
「白い光を心の中で思い描いて。瑠香の手にその光がある」
優しい囁きの導きは、私の目の前で現実になった。私の手に白い光が宿り、本を光が包み込むと風がぴたりと止んだ。
「ほら。もう怖くないだろう?」
笑う息が耳を掠め、私を抱き締めていた腕が離れた。安堵する心と残念な気持ちが入り混じって複雑怪奇。手に力を込めると、ぱたんと音を立てて本が閉じた。
安心したのか床に座り込んでしまった祐成に、ライが厳しい声を向けた。
「君は瑠香に危険が及ぶと知っていて渡したのか?」
「…………今までは瑠香が触ると一瞬で消えてた。だから……」
唇を噛み、祐成は悔しそうに視線を逸らす。
「この本に憑いていた闇が見えていたのだろう? その闇の濃さも」
「……」
無言で祐成は顔を上げ、ライを睨みつけた。険悪な空気が二人の間に流れる。
「待って。一体、何の話なの? 私が触ったら、何が消えたの?」
幼い頃から今まで、聞くなと言われてきたから聞かなかった疑問を、私は祐成とライにぶつけた。
「何と言えばいいのかなぁ。悪しき闇とか邪気とでも言えばいいかな?」
祐成は何も答えず、ライが優しく答える。
「悪しき闇? 邪気? えーっと、悪霊とか鬼とか?」
「そこまで育ってはいないよ。どこにでもある闇、誰でも持っている悪意や怒り、嫉妬が塊になっただけ。そうだなぁ……部屋の隅に溜まる埃みたいなものだよ」
ライの言葉を聞くと、全然怖くない物のように思えてきた。
「私が触ったら消えるの?」
「女性は陰の気を持っていて、闇や邪気も陰だから、ぶつかり合って打ち消し合う。ただ、その本の陰の気は強すぎたし怖がると闇が力を増すから暴れてしまった。……もう百年ばかり放置していたら鬼になっていたかもなぁ」
闇をむやみに怖がってはいけないと、ライが笑う。
「女性なら誰でも消せるの?」
「いいや。女性の中には陰の気を吸い取って溜め込んでしまう性質の者もいる。その場合は闇や邪気を打ち消すことは出来なくて、女性自身が鬼になってしまうこともある。瑠香も気を付けないと、油断は禁物だからね。……さて、私は会議に戻るよ。途中で抜けて来たんだ」
「ライ、助けてくれてありがとう」
『天上人』が参加する会議は、きっと重要なものだろう。まだ聞きたいことはあっても引き留めてはいけないと思う。
「瑠香、もしもまた何か危険を感じたら、迷わず私の名を呼ぶといい。私は必ず瑠香を助けるよ」
優しく微笑んだライは店の扉を開けた。不思議なことに、扉に付けた鈴の音は鳴らなかった。
◆
ライを見送ってから、祐成と店内を片付けた。散らばった書類や布を集め、倒れた椅子や物を戻すと、案外早く終わった。数日前まで暇を持て余して隅々まで掃除していたのが意外にも役立った気がする。
「……えーっと。今回は理由を聞いてもいい?」
「ああ」
祐成に椅子をすすめ、緑茶を淹れる。貴重な花茶はライと一緒か一人で飲む時だけ。……自分でもケチくさいとは思う。
「俺は昔から、いろんな物が見えてた。それで……あいつの言う、悪しき闇とか邪気も見えて……どういう理由かはわからなかったが、お前が触れるとそれが綺麗さっぱり消えたんだ」
「だから私に物を持たせたり掃除させたりしてたの? ちゃんと理由があるのなら、言ってくれたら協力したのに」
「見えない物が実は存在してるっていうのは、恐怖の引き金になる。だからお前は知らない方がいいと俺は思ってた」
祐成が口を引き結ぶ。何の説明も無かった理由に納得はできなくても、理解はした。
「この本、何だったの?」
焦げ茶色の革で出来た表紙はすり切れていてタイトルも読めないし、開いて中身を確認しようとは思えない。
「……大学の研究室にいつの間にか置いてあったんだ。二カ月前は気にならないレベルだったんだが、徐々に闇が濃くなってきた。触れた教授が病気になったのを皮切りに次々と研究室に不幸が襲った。……言い訳と思うかもしれないが今朝俺が研究室から持ち出した時には、もっと闇は薄かった。鞄から出した時、ヤバイと気付いたが引っ込みがつかなかった。……悪かった」
私と違って頭の良い祐成は、狭き門以上の最難関試験を突破して大学へと進学していた。大学は隣の地下都市だから、地下鉄とモノレールを使ってわざわざここまで来たのだろう。
「ん。……ライが来てくれたから助かったけど、これからは気を付けて」
ライが助けてくれなかったらと思うと、背筋が寒くなる。私に闇を打ち消す力があるなんて想像もしていなかったけど、また経験するのはお断り。
「……さっきの奴、何者だ?」
「何者って……?」
そう聞かれても、私だってわからないから答えようが無かった。おそらくは『天上人』で、兄弟が六人いて、不思議な力で神出鬼没。趣味は私をからかうこと。知っているのはそれだけで。
「白髪に赤目っていうのは、俺の大学にも数人いる。そいつらが行っている研究は、何のレポートも発表されない。試験も完全免除で、誰とも親しくはならない」
「……ちゃんと確認はしてないけど、ライは『天上人』じゃないかなって思う。この地下世界を維持するための技術とか、私たちにはわからない不思議な力を持ってるんじゃないかな。さっきもそれで助けられたでしょ」
店の扉が開いた音もなかったのに、ライは突然現れた。
「『天上人』か……可能性はあるな。でも、俺はあんなのを目指してるんじゃないぞ」
いつの頃からか、祐成は『天上人』を目指して環境工学を勉強していた。上層部の空中庭園に住む特権は、この世界の維持に貢献しなければ手に入らない。
「ライに失礼なこと言わないで。助けてくれたんだから」
何だろう。ライの悪口を言われているようでムカついてきた。
「あいつには、闇も無ければ邪気もない。俺に怒りを向けてる間も一切無かった。怒ってるのに全然何もない人間なんて異常だぞ。あいつこそお前を利用してるんじゃないのか?」
「ちょっと待って。それって論理の飛躍なんじゃない? ライは祐成みたいに、私に何か持たせたり掃除させたりしないわよ」
悔しい余りの言いがかりとしか思えない祐成の言葉に、怒りで心が震える。
「ほら。今、お前から闇が出てる。お前には見えてないだろうが、これが普通なんだよ。あいつは普通じゃない」
「だから何? 助けてくれた恩人を悪く言うのはやめて。もう用はすんだんだから帰ってよ。私はもう必要ないでしょ」
作業台の上にあった本を祐成に押し付けて、店の外へと追い立てる。何か言い訳を呟いていても、もう聞く気にはなれなかった。
「じゃあね!」
ぱたりと扉を閉めて、背中から寄り掛かると改めて怒りの感情が湧いてきた。ライは私を利用したりしていないのに。
(……利用しているのは、ケーキやいろんな物をもらっている私の方よ)
「あ。怒ると闇が出るんだっけ。平常心、平常心っと」
闇が溜まって、また怖いことが起きたら困る。なんとなく肩やあちこちを手で払って、私はミシンの前に戻った。