第一話 地下に広がる空
『望むなら雨を降らせてあげよう。好きなだけ、いくらでも』
その声は優しい男性のもの。誰の声なのかはわからない。生まれた直後から、何度も繰り返し思い出す懐かしい声。
私は『雨』というものを見たことがない。
空から水が落ちてくる。それは一体どんな光景なのか。
見上げた空は作り物と言われても、本物の空を見たことがないからどう違うのかがわからない。空に向かって手を伸ばしてみても、流れる雲には届くこともなく。
私が暮らす地下都市に広がる空は、青空照明と呼ばれる技術で地上世界の空を再現していて、朝もあれば夜もある。循環空気の仕組みで風も吹く。それでも昔の本や絵に書かれている雨という自然現象は、ここにはない。
畳一枚サイズの巨大な作業机と人台、アイロン台と足踏みミシン。壁には小さな神棚が置かれた小さな洋裁店の中、窓枠に寄り掛かり空を見上げる。
黄昏色の空の中、地面から天を貫く白い柱が一瞬だけ煌めいて見えた。この地下都市を支える中央支柱は、光学迷彩が切り替わる朝と夕方の瞬間だけ姿を見せる。
最新鋭の技術で支えられる地下都市に建つ家々は、江戸時代と昭和時代の良いとこどり。当初は鉄筋コンクリートで建てられていたけれど、地下の湿度や循環空気、微生物等々の環境要因で、木造建築に瓦屋根の家を定期的に建て替えるのが最適という結論が出た。
私の小さな店がある高台からは、瓦屋根の住宅が広がる風景が一望できる。太陽が地下都市の縁にぐるりと作られた山の向こうへと沈んでいく。
何も変わらない日々。変わらない日常。……退屈が心に潜む空白を刺激する。
「あー、何かおもしろいことないかなー」
愚痴と溜息を吐いた途端、視線を感じて振り向くと、店の柱に寄り掛かる白い短髪、赤目の美形と目が合った。その白肌と細身の長身に紺色の和服が妙に合う。ちゃんと聞いたことはないけれど、二十歳の私より少し年上の二十二、三歳だと思う。
「……ライ、何見てるの?」
「おもしろいもの」
ライの視線は私を真っすぐに見ている。ライはいつも私のことをおもしろいとからかう。そう言われても私自身は、どこにでもいる平凡で普通の人間。セミロングの黒髪に黒い瞳。特別可愛いという訳でもない。
「もー、何がおもしろいんだか全然わかんない」
わざとらしく溜息を吐くとライが笑う。その優しい笑顔が綺麗過ぎて、どきりと胸が高鳴った。熱くなりかけた頬を誤魔化す為、窓枠に頬杖をつく。
「どうした?」
「暇すぎて死にそう」
今日も注文は入らなかった。棚に置かれた黒くツヤツヤした電話が鳴ったのは、もう二カ月も前のこと。その時の注文品は二週間前、無事に納品完了済。
洋裁師だった両親から学んだ技術を活かして最年少の十八歳で資格を取った私は、調子に乗って小さな洋裁店を開いてみたものの、服の注文は数カ月に一度。今までの二年間で、たった八着だけ。
地下では消費を制限する目的で宣伝広告が法律で禁止されているから、店の評判は口コミでしか広まらない。
「瑠香が着る服を作ればいいだろう?」
ライの声で名前を呼ばれると、とても心地いい。雨海 瑠香、それが私の名前。雨も海も本で読むことはあっても、実物を見たことはなかった。
「自由に何でも作れたらいいんだけど、そういう訳にもいかないし」
布もボタンも、地下では物凄く高価で貴重品。買う為には申請書類が必要で、手続きがめんどくさい。
今着ているベージュのブラウスと茶色のスカートは半年前に作ったもので、そろそろ新しい服が欲しいと思っても今まで作った服がクローゼットに詰まっている。生地が薄くなって破れるまで着るのが地下での常識だから、なかなか服が減らない。
「瑠香の技術は素晴らしいと思うよ」
「そう思うなら、誰かに紹介してー」
ライは常に和服だし、私は残念ながら紳士服が作れない。どこで作ってもらっているのか聞くと、全部知人からのお下がりだと言っていた。
和服のことは全然わからなくても、それがとても上質な布だとわかるし、さらっとした着こなしと上品な仕草で着慣れていることが伝わってくる。とびきり美形でラフな服装も似合いそうだと思っても、口にすることは難しい。
店の扉が開く音がしなかったのに、ライはいつの間にか店の中にいる。半年前、道に迷っていたライを助けてから、こうして突然店に来るようになった。ライがどこに住んでいて、何をしている人なのか好奇心はあってもまだ聞くことはできていない。
「私の周りに女性はいないからなぁ。……そうだ。私が女装でもしようか」
「結構です。お断りします」
閃いた。そんな顔で言われても気休めにもならない。ライが女装したら下手すると私よりも綺麗かもしれないし。……周りに女性がいないと聞いて、ちょっとだけほっとしたのは隠しておきたい。
「今日は何しに来たの? まさか私の顔見に来ただけ?」
口を尖らせた私の顔を見て、ライが噴き出すように笑う。全くもって失礼な話。
「ケーキが手に入ったから、差し入れだ」
ぱちりと指を鳴らしたライの手に、魔法のように紙の箱が現れた。滅多に手に入らないケーキと聞いて、心が弾む。
魔法ではなくて手品かと思っても、どこに箱を隠していたのか全然わからないから魔法ということにしておく。
「やったー! ありがとー! あ、お茶飲んでく? 座って、座って!」
自分でも現金な奴だと思いながらライに椅子をすすめ、いそいそと店の奥の台所でお湯を沸かす。今日は何のケーキだろうか。うきうきしながら花茶の缶を開けて、ガラスのポットに乾燥した花や果実を入れる。薔薇と桃、林檎とハイビスカス、ブラックベリーの葉というのはライが好きな配合。全部が貴重品なのに、ライのおかげで切らしたことはない。
ポットにお湯を注ぐと、薔薇やハイビスカスの花がゆっくりと膨らむ。お盆にポットと茶器を載せて店に戻り、作業台の端に置く。
椅子に座ったライは、ポットで開いていく花を子供のような輝く目で見ている。
「何度見ても飽きないな。一期一会。同じ光景は二度と見られない」
乾燥して小さくなっていた花や葉が、お湯の中で揺らめきながら復活していく。完全な元の姿には戻らなくても、その姿は繊細で美しい。
「家でお茶を飲んだりしないの?」
「酒か水しか飲まないな。わざわざ湯を沸かしたりはしない」
独り暮らし……なのだと思う。飲み物がお酒か水だけなんて、不健康過ぎる。
お湯の中の花が完全に開き、淡い桃色の花茶が出来上がった。白いお気に入りのティーカップに注ぐと、綺麗な色と甘く爽やかな香りが広がる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。箱は開けないのか?」
「これからよ!」
わくわくしながら白い箱を開くと、中から白いクリームで包まれたスポンジケーキが現れた。赤いラズベリーがふんだんに使われている。
「ま、ま、ま、待って! これ、生のラズベリーじゃない!」
苺やさくらんぼは時々買えることはあっても、生のラズベリーは食料品店には並んでいない。乾燥した物や冷凍もごくわずか。生のラズベリーは、超がつくほどの貴重品。
「珍しいのか?」
「もう、それはそれは珍しいのよ。貴重すぎて拝みたいくらい」
箱の中にはケーキが三つ。ライの皿に一つ、私の皿に一つ。最後の一つを白い皿に乗せて、花茶と一緒に小さな神棚へ供える。
「……別に供えなくても……瑠香が食べたらいいのに」
「後でちゃんと食べるから大丈夫!」
珍しい物を頂いたら、まずは神様へというのは祖母から教えられて何となく続けている。
「お待たせ、お待たせー。いただきまーす!」
金色のフォークでさくりと切ると甘くていい匂いが漂う。これはもう、食べる前から美味しいに決まってる。
ふわふわとしたスポンジと甘さ控えめの生クリーム。爽やかで甘過ぎないラズベリーの風味が口の中で静かに暴れている。美味しいの嵐。
「どうしよう。美味しすぎて倒れそう」
苺とは違う甘さと酸味の爽やかさ。香りも良い。握りしめたフォークが震える。
「ああ、美味いな」
上品な手つきで一口食べたライも笑う。いつも一人で食事をしているから、こうして二人で食べると美味しさも増すような気がする不思議。
基本的に食料品が配給制の地下では、菓子職人が作る市販のケーキを食べられるのは一年に一度。ケーキと引き換えられるチケットは誕生月にしか発行されないから、ケーキを食べたければ自作するしかない。
そうは言っても、自作のケーキは職人のケーキには程遠く。ライに出会ってから、頻繁に市販品レベルのケーキが食べられるのは幸せ以上の幸せ。
「……ね、これ、実は違法だったりしない?」
聞いたらもう食べられなくなるかもしれないと怖くて聞けなかったけれど、貴重な材料過ぎて心配になってくる。配給チケットの偽造は重罪。三回で犯罪者認定されて最下層送りになる。
「兄が趣味で作っている物だから、安心していい」
「お兄さんがいるの?」
驚き。兄弟がいるなんて全然知らなかった。
「ああ。これまでは食べさせる相手がいなくて困っていたから、今は喜んで作ってるよ。ラズベリーも庭でたくさん採れるから、しばらくはラズベリー系になるな」
「え? 庭?」
私が聞き返すと、ライがしまったと言わんばかりに目を泳がせた。
庭付きの家と言えば上層部にしかない。地下都市は中央支柱を中心に半径八キロの円形に広がっていて、整ったビルや大きな家がゆったりと建つ空中庭園と呼ばれる上層部、細々とした家が建つ中層部、さらに下にある下層部で構成されている。
地下の限られた空間では、お金はあまり意味を持たず、この都市を維持する為に貢献している者が一番上の上層部、一般人は中層部、見たことの無い最下層には罪人が住んでいる。
空中庭園に住む人々を、一般人が『天上人』と憧れと妬みを込めて密かに呼んでいるのは知らない方がいいと思う。
「庭でラズベリーが採れるなんて素敵ね」
中層階の町中は、人工密度が高くて住宅だらけで庭は無い。うらやましいとは思っても、私はこの都市に貢献できる才能も能力もないから諦めもつく。
「食べたいのなら、もらってこようか」
「えーっと……何か毎回要求してるみたいで、気が引けるんだけど……」
食べたいとは思う。ものすごく思う。時々自分で作るプリンやホットケーキに添えたい。そうはいっても、なかなか手に入らない花茶や果物をもらうばかりで何も返せないのが心苦しい。
「じゃあ、また護り袋を縫ってくれないか」
ライがぱちりと指を鳴らすと、金襴の布がテーブルの上に現れた。夜色の生地に金銀の流水と大小の桜が散りばめられている。
「任せて! またこんな素敵な布扱えるなんて、嬉しい!」
手で触れるのは、ケーキを食べてから。布を早く触りたくてうずうずする心と、ゆっくりとケーキを味わいたい心がせめぎ合う。
出会ってすぐの頃、ケーキを辞退し続けた私にライは護り袋の制作を頼んできた。ケーキは縫い賃替わりと言われて私は承諾した。
「前回作ってもらった護り袋は、あと三つだ」
小さな護り袋を百個作ったのは、半年前。何に使うのか用途は一切聞いてはいなくても、使ってもらえているのなら素直に嬉しい。
「じゃあ、大急ぎで作ります!」
美味しいケーキと素敵な布。大好きな物二つを前にして、私の頬は盛大に緩んだ。