9-ツアーの終了
――――カッ……、カッ……、カッ……秒針の動く音がする。
僕は少し恐怖しながら、薄目を開けた。
そこは、いつもの応接室……普通にコーヒーを飲む社長と黒装束のミケ、椅子に座ったまま眠っている村坂さんがいる。いつの間に戻ってきたんだろう。ミケに言葉をかけられて笑った次の瞬間、また濃霧に包まれ、気が付けば応接室だった。
ただ、本棚は降りたままだ。
壁画とドアが、まだそのままそこにあった。
僕はまだ自分が正気じゃないような気がして、自分の頬を両手でパンパン!と叩いてみるが、やっぱりこれは夢ではなさそうだ。
「これ、終一よ……危ないところであった……。 たとえ新入社員に期待するとしても、これは少々やりすぎなのではないか? しかし、悪魔と戦って去らせるとは、敬祐は、さすが我が社に呼ばれた者ではあるのう……」
ミケは社長に話しかけている。いつもは元気よく「シャチョー!」なのに、今は呼び捨てだ。この二人の関係性は、本当によく分からない。
「はは、そうだね。少し興味と期待が過ぎたようだ。 でも、結果的にうまくいったんだから、いいじゃないか……」
社長は眉ひとつ動かさずそう言うと、冷めたコーヒーを口に含む。
村坂さんに目をやるが、ピクリとも動かない。まさか……死んでる? と思い口を開こうとすると、社長がそれを静止するように僕に言う。
「死んでないよ、眠っているだけだ」
やっぱり社長は僕の心の中が見えているんだろう……、僕はここでハッキリ感じた。ここに来てから、いつも僕が聞きたいことなどは、先回りして社長が口にする。
「社長……」
「ん? どうした……」
僕はここから先を心の中で質問してみた。
(あなたは……僕の心の中が見えているんですか?)
真剣な顔で社長を見て、心で問いかける。
「……ん?」
社長はキョトンとした顔をして、言葉を返した。
「なんだ、トイレかい? 我慢せずに行っておいで」
僕はガクッとなった。いや……、わざとかもしれない。本当は聞こえているけど、はぐらかされているのかもしれない。僕は、再度真剣な顔で心の中で質問を続ける。
(あなたは……僕の心の中が見えているんですか?)
(あなたは人間なんですか?)
(あなたは魔法が使えるんですか?)
(ミケの本当の姿はどれなんですか?)
心の中で聞きたい言葉を並べてゆく。
社長の顔が、さっきよりもっとキョトンとして、僕を見ている。だけど僕は……そんなものには負けまいと、もっともっと真剣な表情で社長の目を見て、心で質問を重ねた。
……暫くすると、予想外の社長の答えがあった。
「そんなに見つめられると……なんだか照れてしまうな……」
「嘘だ!! 僕の心の声、聞こえてますよね!?」
僕はあからさまに頭を抱えながら、思わずツッコミを出さずにはいられなかった。
「心の声など聞こえないよ。 まぁ、確かに……睨みたくなるよね。 なんの知識も持たずに、時間旅行に連れて行ったのは申し訳なかった。最初はびっくりするよね……、ちゃんと話せばよかったね」
「嘘だ!」
僕は更にツッコミを入れてしまう。
「終一は、心の声など聞こえてはおらんよ……、聞こえるのはわしじゃ……」
ミケがいきなり会話に入ってきた。
「!?」
僕はミケを三度見ぐらいした。
「わしには、心の声が聞こえておる。 ……しかし、終一は勘がいいだけで、心の中の声は聞こえておらぬ。ついでにお主の疑問にも答えてやろう……。わしは元は悪魔の使い魔であった。元々の姿は猫で差し支えないが、悪魔に裏切られ、神に助けて貰った者。終一は堕天使じゃ……。神に逆らい追放されたが、再度神に仕えるため、神からの宿題として人間を助けなければならぬ身。そして、こやつがあまり食事をせぬのは、人の夢を喰らっておるからじゃ。二人とも、悪魔や幽霊が見えておる。だが、倒すことは出来ぬ。わしらは契約によって結ばれ、離れることはできぬのじゃ……」
「えっ!? 社長とミケって付き合ってるの!?」
僕は咄嗟に口を挟んだ。
「ゴホ、ゴホッ……!! 何を言い出すかッ、この愚か者!! ……恋仲ということではなくっ!! 神との契約によって二人で人間の夢を叶えておるのだ!! 今はこれぐらいでいいじゃろう……!? さ、これが答えじゃ……!」
ミケは言い終わると、プイと背中を向け、窓の外を見ている。
僕は呆然となった。え……? ミケは悪魔の使い? 神様に助けられた? 社長は堕天使? 頭の中どころか、目の中まで「?」でいっぱいだ。社長は横でくすくすと笑っている。
そうこうしていると、僕たちの声で起こしてしまったのか、村坂さんの目が覚めたようだった。
「ん……、うぅ…………」
村坂さんは、しばらく目を伏せていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。
「……全部、覚えてるよ。夢みたいだけど、はっきりと」
社長は頷いた。あれは夢ではなかった。
社長は夢を使い、僕と悪魔の戦いも村坂さんに見せていたようだ。
過去に戻り、真実を見た記憶――それは、もう村坂さんの一部になっている。
「あの時、俺は……確かに、包丁を持ってた。 健太を疑って、殺そうとした。 そのあと、目の前が真っ赤になって、他に何も見えなかった」
社長が続ける。
「けれど……健太さんは、毒を盛っていませんでした」
「ああ、分かってる。 ……あんな優しいやつが、そんなことするわけない。 わかってたはずなのに、認められなかったんだ」
村坂さんはカップを両手で持ち、わずかに震えた指で冷めたコーヒーを口元へ運ぶ。その手の震えが、どれほどの後悔を語っているか、僕にはわかる気がした。
「十和子のことも……うすうす気づいてたよ。けど、見ないようにしてた。 あれは“嘘の家庭”だったんだな。 でも、嘘でも、崩したくなかった。しかし、本当に俺は自分では何もできなかった。 ……情けないがね」
「誰だって、崩したくないものを抱えてます。 崩れてからでないと、本当の形に気づけないことも」
社長が答えを返した。
「……君は、全部見たのかい?」
「いいえ、全部見たのは、うちの社員の敬祐です」
「そうか……。 だったら、敬祐君、一つだけ聞いていいか?」
「はい」
「俺があの時、包丁を振るってたら……どうなってたと思う?」
「健太さんは、村坂さんを赦さなかったでしょう。 そして、村坂さん自身も、二度と自分を赦せなかったと思います。 奥様にも恨まれて、たぶん崩壊の道を歩んだと思います」
村坂さんは、静かに笑った。それは苦いけれど、どこか安堵の混じった笑みだった。
ため息をつきながら村坂さんが僕に向かって話す。
「選ばなかった未来ってさ、思ったよりずっと“重い”ものだな」
「はい。 でも、“捨てなかった未来”も、ちゃんと残っています」
「あいつに……、健太に、ちゃんと謝れるかな」
「覚えていないと思うので、謝らなくていいと思います。 ただ、次に会うとき、いつもの兄さんでいられるなら、それで」
村坂さんは目を閉じて、小さくうなずいた。
「えと、あとは……。奥さんが先に亡くなったのは、悪魔が約束を破った奥さんを恨み、殺したからです。でも、僕きっとそうなるんじゃないかと思って、奥さんに小さな魔法をかけておきました。魔法は初めて使ったんですけど、ちゃんと効いて良かったです」
「そうか。そうだったのか。途中から毒がなくなって良かったし、十和子が急死することもないとしたら、今日帰ったらきっと家にいるんだろうね。本当に有り難い限りだ……」
「……敬祐くん。 君、ただの案内人じゃないね」
「初めての仕事だったので、そう言われるとビックリです。有り難うございます。」
村坂さんがまた目を開けたとき、その瞳にはわずかに光が戻っていた。
「ところで、今回のツアー、全部でいくらかね?」
社長がコホンと空咳をして言う。
「悪魔との戦いもございましたので、全部で10億円程になりますが、お支払いできるのはおいくらですか?」
「10億? そりゃあ随分ふっかけて来たなぁ。 いいよ、分かった10億支払おう。妻が生きているだけでも、その価値はある」
村坂さんはケラケラと笑いながら、「また案内状を出してくれ後日支払いに来る」と言い残して帰って行った。
村坂さんとの対話が終わり、静かに応接室に沈黙が戻る。
僕が、そっと空になったコーヒーカップを持ち上げようとしたとき、背後から社長がぽつりと声をかけた。
「ねえ、敬祐」
「はい?」
敬祐は立ち止まった。
社長が言う。
「――赦しを助け、見届けたことが、奥様の未来を変えたんだ。魔法まで使えるとは恐れ入った、僕よりも強いじゃないか。ははは」
社長は続ける。
「だからね。これからも、”誰かの未来”を、ちゃんと見てあげられる人でいてくれ」
「分かりました。 頑張ります」
僕はそう言って頷いた。
「魔法はミケから貰ったんです」
「そうだったのか、魔法は精神修行が大切だから、無駄にしないようにね」
「はい、まずは掃除で手を使わずにやれることを目指してみます」
「ふふふ、期待しているよ」
「そういえば、明日もお客さんが来るよ。 明日は13時15分頃来るから、早く来なくていいよ」
社長はそう言うと、僕の肩をポンポンと叩き、くつくつと笑いながら本棚のスイッチを押し、応接室を元に戻した。