8-悪魔退治と帰還
悪魔は微動だにせず、そこに存在している。
「こたえびとさん……、聞こえてるんでしょ。 私、もう終わりにしようとしてるの。 それじゃ、いけないの……?」
悪魔は、何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。
まるで――「赦すことは契約違反」だとでも言うように。
僕は思わず立ち上がった。このままでは、奥さんの心が持っていかれる。
「その毒は、願いじゃない。 あなたの中にある、願いだったモノの亡骸です」
「…………」
「それを手放すってことは、“もう願わない”と決めることです。 それだけなんです……!!」
奥さんの肩が、小さく揺れた。
「……怖いのよ。 いなくなってほしいって願ってしまったことを、いなくなったあとで後悔するのが――いちばん、怖いの」
小瓶は激しく震えていた。蓋が跳ね、液体がカップの方へにじり寄るように傾いた。
奥さんはその場に立ち尽くし、背後の“沈黙”に飲まれそうになっていた。
影はもう、奥さんの肩に触れそうなほど近くまで来ている。
「……もうやめて……お願い! ……私は……っ」
その瞬間、僕の足が勝手に動いていた。
気付けば、奥さんと悪魔のあいだに、僕が立っていた。
風が止んだ。
空気が硬直した。
世界そのものが、僕の存在を“想定していなかった”ような、そんな沈黙。
僕は、ゆっくりと息を吸って言った。
「……その契約は、もう古い」
悪魔は何も返さない。
ただ、そこにいることだけで空間を支配している。
でも、僕は確信していた。この気配、この圧力――それは、脅しだ。
「契約を忘れるな」と、恐怖で縛ろうとするための力だ。
「あなたは願いに応えたかもしれない。 でも、今の奥さんはもうその願いを必要としていない! 小瓶はもう、心の外に出たんです。 奥さんは今、あなた自身を手放そうとしているんです!」
小瓶の液体が、赤からゆっくりと琥珀色に変わり始める。
悪魔の影がわずかに揺れた。
まるで、焦ったように。
僕は奥さんの吐露に答えるように言葉を紡いだ。
「怖いなら、怖いままでいい。 後悔するなら、後悔したままでいい。 でもそれを、“誰かのせいにしない”と決めることが―― それが、“赦し”です」
悪魔は、まだ動かない。
でも、世界の空気が少しだけ変わってきていた。
「契約の相手が、願いを更新したんだ!! だったらあなたは、もうそこにいられない筈だ!!」
僕はそう言って、奥さんの背後に立つ“影”を見つめた。
その影が、ほんの少し――後ずさるように歪んだ。
風が、部屋を横切る。
何かが引かれていくような、静かな“終わりの音”。
カーテンがふわりと揺れ、空気がやわらかく戻ってくる。
悪魔はもう、いなかった。
ただ、テーブルの上に残された何も入っていない小瓶が――
まるで命を失ったかのように、静かに、パキン、と割れた。
「お……、終わった?」
テーブルの上に転がった小瓶は、もう何の匂いもしなかった。
僕は奥さんに話しかけた。
「お別れです……」
「そうなのね……。 ここから先は、私が自分でやらなきゃいけないのよね」
「……はい」
「ありがとう。……あなたの名前、聞いてもいいかしら?」
「……さあ、覚えていられるかどうか」
僕は小さく笑って、それ以上何も言わなかった。
玄関を開けると、庭には見慣れた大きなコウモリ傘が広がっていた。その下には、あいかわらず黒のスーツ姿の社長が座っていて、その足元には、ちょこんと座ったミケ黒猫。
「……おかえり」
「ただいま戻りました」
風が止み、空の色が少しずつやわらかくなっていく。
「やっぱり、お主……悪魔まで見て取るとはたいしたやつじゃな」
「……それは、光栄ですって言っちゃっていいのかな……はは」
「もうひとつ言うなら、あの小瓶──お主が立った瞬間から、何度か割れようとしていたぞ。 きっと、あれはもう器ではなかったのじゃ。 願いの抜け殻だったんじゃろうな」
社長は、ふっと笑う。
「さ、帰ろう。 そろそろ村坂さんも起きる頃だ」
僕はもう一度だけ、あの家を振り返った。
あの窓辺に、奥さんの姿があったかどうかは、もう分からなかった。
けれど、たしかに感じた。誰かが、今この瞬間、未来を選んでいるということを。
コウモリ傘の中、ミケが僕の袖を引いた。
「敬祐。 お主、少し顔つきが変わったぞ。 いい顔つきじゃ」
僕は、笑ってただ頷いた。