6-悪魔と十和子
僕たちは、まったく同じ場所の庭で、コウモリ傘を使って隠れていた。ミケが闇を出して家の中の映像が映る。
午後の木漏れ日の中、奥さんは一人でお茶を飲んでいた。
「……あの人さえいなくなれば、私は幸せになれるのに」
奥さんは、不吉なことを呟くと大きく伸びをする。
その瞬間、玄関のドアチャイムが鳴り響いた。
ピンポ――――ン
「あらあら、こんな時間に誰かしら……」
奥さんは慌てて玄関の方へ歩いて行く。
「僕です! 健太です」
「まぁ健太さん? ちょっと待って、今開けるわ」
いそいそと頬を染めながら、奥さんはドアを開ける。
「……え?」
そこには誰もおらず、ただ、爽やかな風が吹いていた。
「変ねぇ、健太さんの声がしたのに」
そのときだった。台所の明かりが、ふっと一瞬だけ暗くなった。気付くと、椅子が一脚、引かれている。誰も座っていないはずの椅子に置いてあるクッションが、沈んでいた。
「願いを聞こうか」
声は低く、湿っていた。どこから聞こえたのかもわからない。
けれど確かに、奥さんの希望への返事だった。
「あなた……誰?」
奥さんはさして怖くもないようで、隣の椅子を引き、静かに座った。
「誰でもない。言うなれば応答者さ。 願いの残響を食べて生きているだけの者だ」
「願い……叶えてくれるの?」
「見返りがあれば」
「何を差し出せばいいの?」
「君のやわらかい部分。 愛情、羞恥、母性、自己否定、後悔。 ——そういった、心の重さになるものだね」
奥さんはカップを持つ手を少しだけ強く握った。
彼女の目は静かだった。
「いいわ。 持っていって。 あの人が死ぬなら、私は幸せになれる」
「毒を渡そう。少しずつ効く。 ——苦しみは、君の罪のように、遅れてやってくる」
「……私が飲む必要はある?」
「ない。 君はその毒を数滴たらして、静かに飲ませるだけでいい」
「そう……、それなら、やってみる価値はあるわ」
いつの間にかテーブルの上に、ひとつの小瓶が置かれていた。
その中の液体は、光を吸うように沈んでいる。
奥さんはそれを見下ろし、微笑した。そして、小瓶を引き出しに滑らせる。
「……ありがとう」
「代償は後で請求するよ。忘れた頃に、静かにね」
ふわりと風が奥さんの頬を撫でると、クッションの沈みはなくなっていた。
映像を見終えた社長は、めずらしく黙り込む。
僕は、恐る恐る訊ねる。
「……これって、つまり、奥さんが毒を……?」
「そうだね……、ただ、この悪魔は強い。 ……私たちにはどうすることもできない……一つだけ手があるとしたら、あの小瓶を割るか、毒という悪魔と対話するしか手がないね」
「それなら、時を止めて、その間に……」
「それが出来るなら苦労はしないよ。 ……残念ながら、あの毒が悪魔そのものだからね」
「悪魔と対話っていうのも難しそうだし……う~ん」
社長は、しばらく何も言わなかった。ポケットの中で、懐中時計を握りしめていた手がわずかに震えている。
「……ミケ」
「なんじゃ」
「小瓶の座標は見えるかい?」
ミケ黒猫は静かに目を閉じ、首を横に振る。
「これは……所在が固定されておらぬ。小瓶は自らの意思で自分を動かし、奥さんが毒を使うときだけ、引き出しやテーブル上に戻っておる」
社長は眉を寄せ、目を伏せたまま低く呟いた。
「……じゃあ、持ち出すことすら、できないわけだね」
「そうじゃな。 小瓶は、奥さんの感情と連動しておる。 毒を使いたいと彼女が思った瞬間に、彼女の意識の中で、引き出しの中やテーブル上に現れる。 誰にも見つけられないようにな」
僕は思わず喉を鳴らした。
「……それって、まるで小瓶の方が、彼女の心の奥に寄生してるみたいですね……」
ミケはゆっくりと僕に目を向け、うなずいた。
「その通りじゃ。 小瓶は“願いそのもの”。 毒は物理的な液体ではなく、執着と願望が凝縮された存在。 じゃからこそ、時間を止めても動ける。 悪魔は物理法則よりも、心の力に従って存在している」
「なるほどね」
社長は頷くと、推論を述べる。
「つまり、あの家……あの空間全体が、奥さんの願望を叶える式場みたいなものってことか」
社長はそこでようやく、懐中時計をポケットから出した。だが、針は動いていなかった。
「……時も今は拒まれてるね。 小瓶の周囲だけ、未来が拒否されてる……。 このままここにいると、僕たちまで未来がなくなってしまう」
ミケ黒猫は社長に声をかけた。
「もし、もしもじゃが。 小瓶の毒=願望の塊とするなら、奥さんが本気で夫を赦すと、小瓶が消滅するという理屈が立つのではないか? しかし、それを導くのが可能か? 誰が彼女の“心”に踏み込むのか? 終一お前なら分かるのではないか?」
社長は、静かに懐中時計の蓋を閉じた。
その表情はいつもの穏やかさを保っているように見えたが、眉間に浮かぶ影は深かった。
「……分かっているよ、ミケ。 でも“赦し”は、一番難しい」
僕は黙ってその言葉を聞いていた。社長の声は、いつもよりもずっと静かだった。
「赦すっていうのはね、“自分の傷をなかったことにする”ってことじゃない。 その傷を“持ったまま”、他人を見つめることだ。 痛みを背負ってなお、笑えるかどうか……それが、赦しの本質だよ」
社長は立ち上がり、ミケの方を向いた。
「そして奥さんは、いまその逆にいる。 “痛みを与えることでしか、自分の心を支えられない”ところにいるんだ」
「……では、終一。 お主は、誰なら彼女の心に踏み込めると思う?」
社長は、すぐには答えなかった。だがやがて、視線を僕の方に向けた。
「敬祐……」
「え……?」
「君だよ。 “人間の醜い部分を見てしまった人間”だけが、あの願いに触れることができる。 両親が亡くなり、親戚にお金を取られた君なら……もしかすると、があり得る気がするんだ」
僕の喉が鳴った。頭の中に、奥さんのあの微笑みが浮かんだ。あの、何もかも知っていながら、優しげな仮面の奥に毒を隠す微笑みが。
(あの人の心に……僕が、触れる……?)
社長は、ただ一言、続けた。
「君の優しさは、毒に近い。 だからこそ、毒の側に届く可能性がある」
僕は、言葉を失っていた。社長の視線は真っ直ぐだった。疑いも、慰めもなかった。
ただ――「信じている」という確かな強さがあった。
ミケは、じっとこちらを見つめていた。ミケの瞳に映る僕は、小さくて、頼りなかった。
けれど――それでも、僕は逃げられなかった。
奥さんの顔が、また頭の中に浮かぶ。静かな笑み。優しさを纏った毒。その奥にある、決して見せないもの。
そして――自分の過去も、よみがえる。
父と母の遺影。
保険金を奪っていった、あの冷たい親戚達の手や笑い声……。
そのとき、社長がそっと呟いた。
「“心”を動かすのは……敬祐にしかできない」
僕は震える手で、社長の手を握った。自分が何かを変えられる気がした。
「……やってみます。 僕に、できることがあるなら」
社長は、目を細めて微笑んだ。
「それでいい。 行こう。次は、彼女の“願い”に触れる旅だ」