4-ドアの向こう側
眩い光と風に圧倒された僕は、強く目を瞑っていた。
ほどなくして、風がやんだようだ。僕は恐る恐る薄目を開けてみると、そこは見たこともない道端で、何が起こったのか勝手が掴めずキョロキョロしてしまう。
「ここは……、どこだ……」
社長もいない、ミケもいない……村坂さんもいない……。ただあるのは普通の道路に民家。住宅街だというのはすぐに分かったが、応接室にいた筈の僕は、今なぜか外にいる。
「ニャーン」
ふと足下を見ると、ふさふさと毛足の長い、もふもふの黒猫がすり寄ってきた。僕はしゃがみこむと、その猫の背中を撫でながら言う。
「お前……、迷子なの? 僕も迷子らしいんだ……」
苦笑いしつつ猫の背中を撫でると、いつも聞いていた声がした。
「まだ気付かないのか、愚か者……」
その声は聞き間違う筈もない、ミケの声だった。
「猫が喋ってる!? ミケ!?」
僕は大きな声を出して驚いた。
「うるさいのう……、黙って私についてくるがよい……」
ミケの声で言葉を話す黒猫は、僕の前を早足で歩き出した。慌てて僕はその後を付いて行く。
暫く歩くと、黒猫は雑木林の中に入っていった。僕もそのまま後をついて行ったが、すぐに猫を見失った。僕が慌てていると、僕の背後から声がする。
「敬祐……、こっちにおいで」
振り返るとそこには、社長が黒く巨大なコウモリ傘をさし、胡座をかいて黒猫をその中に入れていた。
「社長!!」
「しーっ」
社長は慌てて、僕が黙るよう、人差し指を僕の口元にあてた。
「……ここは、どこなんですか?」
僕は小声で社長に聞いてみる。
「村坂さんのツアー場所だよ。あの青い屋根が村坂さんの家だ」
社長も小声で答えながら、僕の肩を抱き、傘の下に入るようにジェスチャーをする。
「この傘の下にいれば、私たちが見えることはないから……。あ、あと……この猫はミケだよ」
さらっと、社長はすごいことを言った。僕は再度ものすごく驚いて、口を大きく開いた途端、黒猫になったミケに猫パンチをくらった。
「何度も言うが……うるさいのじゃ……」
ミケが猫になっちゃった? それとも元々ミケは猫? 人間と猫と、どっちが本当の姿? ……ぐるぐると考えてから、僕は考えることをやめた。正直、全然分からないし、今この時間には聞いてはいけない気がする。
「ミケ、中を見せて」
社長はそう言うと、ミケを僕との間に下ろし、頭から体をサラリと撫でる。
「……見るがよい」
ミケ黒猫は、くるっと円を描くようにそこで回ってみせると、そこに真っ黒い霧のようなものがフワッと浮かんだ。黒い霧の中心には、家の中のような場所が映っており、女性の姿が見えた。
「おかえりなさい、アナタ」
どこかの奥さんなのだろうか……? 清楚なエプロン姿、ご主人を迎えるような朗らかな笑顔と明るい声。でも、これが誰の奥さんなのか、次に映った映像ですぐに分かった。
「あぁ、ただいま……。そうか……、本当に願いは叶ったんだな……。十和子……、愛しているよ……もう遠くに行かないでおくれ……」
「まぁ……、どうしたの? 私はここにいますよ」
ここに映っているのは、村坂さんの家の中らしい。
奥さんに会えた喜びで村坂さんは泣いている。……そういえば、奥さんは亡くなったと村坂さんは言っていた。奥さんに会えたのは良かったな~……と考えて、僕はふと我に返る。
(ん……? じゃあ……、今はいつなんだ?)
ハテナがいっぱいになった僕の顔を社長がチラリ見て笑う。
「質問は……、ツアーが終わったら……ね」
「あっ……、はい」
社長は本当に、いつも僕の心が見えているんじゃないかと思えるほどに、的確な言葉を僕に告げる。
「とりあえず、まだ大丈夫だが、村坂氏は早々に過去に介入してしまったな……」
社長はそう言うと、少し難しい顔をして胸元から懐中時計を取り出し、一瞥してまた時計をしまった。少ししか見えなかったけど、その時計は銀色に輝き、時計の針がたくさんあって美しかった。本棚が沈んで現れた壁、ステンドグラス付きのドア、僕が今日初めて見た物はどれも皆本当に綺麗なものばかりだ。
それなのに、今はミケ黒猫が映し出す黒い霧……、どちらかというと闇に包まれた映像を社長と僕は覗いている。ドアが開いた瞬間に見えた光……、そして今目の前に広がる黒い闇……、この二つはとても対照的だ。
もう、これが夢であってもいいと思いながら、社長と共にその闇を見続けた。
僕は村坂さんと奥さんが平和そうに話すところを見ながら、色々考えていた。そうするうち、奥さんが村坂さんに紅茶を入れているところが映った。村坂さんはそこで、胸ポケットに入っているベルを鳴らす。
「どうやらお呼びのようだ……」
社長は胸元から懐中時計を取り出し、横に付いているスイッチらしいものをカチリと押した。
「ミケ、お願い。行くよ、しっかり捕まっててね、敬祐……」
「えっ……!! あっ、はい!!」
僕が言い終わると同時に、ミケ黒猫はぶわっと僕たちよりも大きくなり、大きな黒い翼が背中から生えてくるのが見えた。
ミケ黒猫は僕たちの体を器用に前足で抱え込むと、翼を大きく開き、青い屋根の家めがけて飛ぶ。
「わぁあ――――――っ!?」
あっという間に地面が遠くなった。僕は怖くて思わず声をあげて驚いたが、社長は呑気にコウモリ傘を折り畳んでいる。僕は落ちるのではないかと、必死にミケ黒猫の毛を掴んだ。
ミケ黒猫は、あっという間に僕たちを青い屋根の家の庭先まで運ぶと、またシュルッと円を描いて回り、小さくなって普通の猫サイズになった。やはり僕は夢を見ているようだ。こんなもの、現実である筈がない。僕は目覚めようと自分の顔をギチッと摘まんで捻ってみたが、やはり痛いだけだった。
社長は靴も脱がず、そのまま村坂さんの家に入って行く。僕は社長の後を追って、中に一緒に入って行った。
……家の中の時間が止まっている。
いや、きっと正確には全世界の時間が止まっているのだろう。奥さんが紅茶を注ごうとしている格好で止まり、ポットから紅茶が下に出始めたところで止まっている。どうやら、僕たちと村坂さんだけが動くことができるようだ。
「あぁ、来てくれたか……」
村坂さんは僕たちを見ると、安堵したように言葉を吐いた。
「何かございましたか?ふむ、それにしてもいきなり干渉するなど、契約違反ですよ……」
社長は村坂さんに話しかける。
「悪いが、どうか付き合ってくれ。十和子の幸せに関わることなんだ。あの紅茶なんだがね……、少し思うところがあって、あれに毒が入っているかどうか確かめる手段はないか?」
「それでしたら、このアンプルをお使い下さい。 追加料金は一千万円です」
社長は、ポッケから病院で見かける薬液が入った、小さなガラス瓶を手渡した。
「……わかった」
村坂さんはそれを持って立ち上がると、ポットから出始めた紅茶をカップで掬い取り、アンプルの先を折って薬液を紅茶に落とした。
「黒くなれば毒です」
社長はそう答えながら、少しだけ悲しそうな瞳で村坂さんを見ていた。
「黒だ……」
村坂さんはため息をつき、そのまま暫くの沈黙が流れ、ガクリと項垂れている。
「頼みがある……、妻は私に毒を盛っている。この紅茶をどこで買っているのか、どの段階で毒が入るのか、もう少し過去に遡ってくれはしないかね……」
「追加料金がかかりますが、宜しいでしょうか?」
「構わん……見積もいらんから、せいぜいふんだくればいい」
村坂さんはまた大きくため息をつくと、金額も聞かずにまた社長に依頼をかけた。