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20/22

20-自己犠牲、ツアー終了

 応接室に戻ってすぐ、結城さんは震える指先を膝の上に押しつけていた。


テーブルの上に置かれた黒薔薇の花びら。

その存在は、まるで「夢ではなかった」と無言で告げているようだった。


「――おかえりなさい」


社長の声は、旅立ちのときよりも深く、どこか哀しみを帯びていた。


結城さんは、しばらく黙っていた。

やがて、ぽつりと呟いた。


「……あの鏡。あれ、本当に……私だったの?」


「ええ。あなたの中にある、願望のかたちです」


社長は懐中時計を開いた。

カチ、カチ、と針の音だけが部屋に響く。


「昔……昔、私は、こんな願いをした覚えがあります」


結城さんは目を伏せた。


「子どもはいらない。誰にも縛られたくない。私だけの人生が欲しい――

 そう言った夜があるんです」


社長の視線が、静かに彼女に向けられる。


「そのとき、誰かに会いませんでしたか? 夜中、眠れずにいた夜……」


「……ええ」


結城さんは唇を噛んだ。


「見知らぬ女性。顔は覚えていません。でも――

 願えば叶えてあげる。その代わり、何かひとつ、大事なものを

 私に差し出してって言われて、

 私は、何を渡したのか……思い出せなくて」


社長は、言葉を選びながら、話しているようだった。


「その人は、選ばれた者の夢に現れる存在です。

 誰かの心の中に巣食い、契約を交わす。

 それが悪魔の常です――」


結城さんの顔が青ざめる。


「じゃあ、私は……本当に悪魔と契約を?」


「あなたが差し出したもの。

 それは、一番大きなものは自分の死の選択権です」


「……死の、選択……」


「死ぬ日も、場所も、誰にも選ばせない。

 あなたの死は、あなたが選ばずにいられるよう、完璧に整えられていた。

 あれは贈与ではなく、封印です」


結城さんの目が潤み、声がかすれた。


「だから、あんなに綺麗だったんですね……誰かの死というより、

 展示品みたいだった」


社長は、静かに頷く。


「あなたの未来は、誰にも触れられない孤独に守られていました。

 それが、かつてあなたが望んだ世界です」


「でも……変えたい……?」


「……変えられますか?」


その問いに、結城さんは震えながらも言った。


「……変えたいんです。

 あのときの私には、今の私の声が届かない。

 だからこそ、私は今の声を、未来に送りたい」


 社長は、懐中時計をパチンと閉じた。


「その覚悟があるなら……契約の鍵は、まだあなたの中にあります」

「鍵……?」


「悪魔との契約は、一度は交わされても、

 代償以上の痛みを持って差し出せば、破れることもある」


結城さんの瞳が揺れた。


「代償以上の痛み……それって、何?」


社長は少しだけ笑みを浮かべた。


「それを知るために、人は戦うのかもしれません」


――その日。

結城さんは銀猫旅行社の推薦で、とある女性と会う。

彼女もまた、悪魔と契約を交わし、子どもを産めない体となっていた。


目の前で泣き崩れる若い女性。


結城さんは、そっとその手を握り、社長に告げる。


「この人の運命を、私が引き受けられるなら……引き受けたい」


「……それは、あなた自身の残りの寿命と引き換えになりますが

 宜しいでしょうか?」


「構いません。私の未来の展示室を壊せるなら

 ――この人に、産む自由をあげたい」


社長は静かに目を閉じ、契約の封を解いた。

その途端、黒い羽根と白い羽が視界を覆い、大きな羽音と共に現れ、

やがて、白い羽だけが残ってそのまま消えていった。


社長は羽根を払いながら言う。


「自己犠牲……、天が貴女に微笑みました。

 結城さんはもう悪魔に縛られる必要はありませんし、

 残りの寿命も、生きてゆくことが出来ます」


――そのとき。

結城さんの手には、黒薔薇ではなく、白い小さな花弁が握られていた。

それは契約の外から返された、たった一つの未来。


そして、彼女がようやく自分で選んだ、

「不完全なまま、誰かと生きる」未来だった。


自己犠牲を受けとった女性は、感無量といった様子で感謝を重ね、

嬉し涙を流して帰って行った。


――その日の夜。


契約の儀式が終わり、白い羽が空気に溶けるように消えたあと。

銀猫旅行社の応接室には、しんとした静けさが戻っていた。


社長は、深く息をついた後、椅子に背を預ける。

その隣では、ミケが黒装束の姿で静かにカップを両手で包み込んでいた。

僕は温かいコーヒーを淹れて皆の前のテーブルに置くと、結城さんの前に座る。


「……ありがとう。なんだか、夢みたい」


結城さんがぽつりと呟くと、ミケがすっと目を細めた。


「でも、夢じゃないんじゃ。証拠はここにあるぞ」


そう言ってミケが指差したのは、テーブルの上――

そこには、小さな白い花弁が、一枚だけ残っていた。


「これは、あなたが外から戻ってきた証です」


社長が懐中時計を手のひらで転がすように弄びながら、静かに言う。


「本当の旅は、自分に戻るためのものかもしれませんね」


結城さんは微笑んだ。

肩の力が、ようやく抜けてきたようだ。


「……私、ずっと誰にも触れられたくなかったんです。

 子どもなんていらない、愛なんて面倒。

 誰かに何かを預けるのが怖かった」


「それは賢い人間の選択でもあるであろう?」


ミケがくるんと足を組み替えて、コーヒーを飲む。


「でも、それだけじゃ足りなかったんじゃ……」


「そうね、足りなかった。でも、……誰かのために痛むって、

 こんなに……生きてる感じがするものなんですね」


「……結城さん、今のお顔、すごく優しいですよ」


結城さんは驚いたように僕を見ると、照れたように笑った。


「そんなふうに言ってもらえる日が来るなんて、思わなかった」


社長が立ち上がり、窓の外の夜空を見上げた。


そのとき、ミケが小さな声で囁く。


「白い花が咲いたら、それは誰かの契約がほどけた合図なのにゃ」


「咲くの? この花が?」


「咲くのじゃ。――温かい場所で、人に触れながら、生きていれば……」


結城さんは、そっと白い花弁を手のひらに包み込んだ。


静かに、でも確かに。

あの展示された未来とは違う、生きた時間が、ここから始まっていた。


「それより皆さん、そろそろお腹が空いていませんか?」


僕は勇気を出して皆に問いかけてみた。


「そういえば、何も食べていなかったね……何かあるかい敬祐?」


「わしももう限界じゃ」


「昼食の残り物で作ったホワイトシチューがあります

 もし宜しければ、温めてきますが、結城さんも

 いかがですか?」


「えっ、私までいいの?」


「もちろんです」


こうしてこの夜は結城さんを含めたプチパーティーのようになった。


皆お腹が空いていたようで、食べ終わるとおかわりを求める。

結城さんまでおかわりしたから、僕はちょっと笑ってしまった。

平和であることは、なんて素晴らしいことなんだろう。


プチパーティーが終わる頃、結城さんは1億5千万円ではお礼が

たりないと告げると、近いうちにもっと持ってくると告げた。


結城さんは暫くすると、社長が用意した黒の専用車で

帰っていった。


仕事がまた一つ終了した。


銀猫旅行社は、いつも通り平和だ。

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