17-新しい客・結城なつき
結城なつき38歳は、全世界で子供服を販売するフランチャイズ店舗を統括する、ブランド本部のオーナーである。年収は、ざっと計算して3億4千万円。オーナー業の他にもテレビ出演や講演が次々と舞い込み、その他にはバーやクラブを15軒ほど六本木と銀座に構え、仕事はとても順調だった。
自社の、かわいい服を着た子どもの写真を眺めるために作られたSNSアカウントには、世界中の幸せが湧いている。あまり呟かないが、新作発表のときなどに使う自身のSNSは、フォロワー数870万人を超えていた。
だが、なつき自身は本当は笑えていなかった。結婚もしたことがないし、早くに子宮癌になり、子宮全摘出という不遇にも見舞われた。「大丈夫、幸せです」そう唱えることは習慣になっていたけれど、そのたびに心に小さな空虚を感じていた。
そんなある日の昼休み。
幹部専用のラウンジで、タブレットを操りながら、なつきは何気なく検索をしていた。
「未婚 幸せ 不安 孤独死」
自分でも何を知りたかったのか分からない。
画面に、たくさんのサイトリンクが表示される。
マインドフルな記事やブログの名前が並ぶ中で、一行だけ、わずかに幻のようなリンクが紛れ込んでいた。
≪未来旅行をご希望ですか?≫
フォントも色も他のリンクと同じだったはずなのに、そこだけが「壊れている」みたいに視界の端から分離して見えた。無意識にタップすると、画面はふと暗転し、次の瞬間白い背景に文字がぼんやり現れた。
『未来を見るには、覚悟が必要です。』
そのアニメーションを最後に、画面は光を失い、リンクも存在しなくなった。
復旧ボタンも反応せず、キャッシュも無い。
ただ、なつきのタブレットには……
【ツアー申込書_未来.pdf】
そのファイルだけが、一つ、落ちていた。
ためらいながらも、なつきはタブレットの画面に指先を滑らせた。
PDFファイルは、真っ白な背景に文だけを浮かび上がらせた。
ようこそ。あなたの”未来”に対応する時間旅行ツアーへのご案内です。
■対象時刻:要確認
■対象場所:要確認
■目的内容:結城なつき様自らの未来の一断面を目視・記憶すること
■見積内容:一億五千万円(明日当日払い)
【注意事項】
─旅路で知り得た情報を、他者に漏洩しないこと
─未来の自分または他者へ直接干渉しないこと
─事故、死亡、精神崩壊に関しては一切の責任を負いかねます
▼本申請を希望される方は、本ファイルを印刷し署名の上、封筒にてご送付ください。
※送付先は住所封筒書き入れ時にのみ表示されます。
具体的かつ要領を得ない内容に、なつきは眉をひそめた。
二回最後まで目を通すと、PDFはまた真っ白な背景だけになった。
だが、タブレットの画面には、いつの間にかプリントアウト機能が浮かび上がっている。まるで、すでに彼女が「印刷する」と決めているかのように。
(……バカみたい)
そう思いながら、なつきは指を動かした。
社用プリンターが、静かに音を立てつつプリントアウトを済ませると、なつきはそれを手に取り独り言を呟いた。
「よく出来た詐欺ウイルスだこと……。でも、ちょっと面白そうね……」
支払いが明日と書かれていた為、秘書に連絡する。
「もしもし、私だけど。私の明日のスケジュールどうなってる?」
「少々お待ち下さい……、オーナー!奇跡的に何の予定もありません!」
「そうなのね、じゃあお願いがあるの。東京新星銀行に電話して私の個人預金から、1億5千万円抜いて持ってきてって伝えてくれない?」
「承知致しました!」
「さてと、封筒に宛名を書くわよ、表示して頂戴」
PDFを再度表示すると、住所が浮かび上がった。
その途端、ふ、と部屋の空気が変わった。音のない音が耳をかすめる。
ペンの先が封筒についた瞬間、書いてもいない文字が浮き上がる......
東京都港区南青山2丁目……
「何よ……、私書いてないのに……」
そのとき、スマホが柔らかい曲を奏でながら鳴った。
画面には【東京新星銀行 六本木支店長】と出ている
心霊現象ではなく、普通の電話だった。
なつきは手に汗をかきつつ、その電話を取る
「もしもし、あら支店長ご無沙汰ね」
「結城様、ご無沙汰していて申し訳ございません。何か我々に不備がございましたでしょうか?」
支店長は焦りながら話して、僅かに声が震えている。
「何もないわ。ただちょっと豪遊したいだけなの」
「そうでしたか……、ちなみにお金はいつ使われる予定ですか?」
「明日よ」
「えっ、明日ですか。明日の何時ですか?」
「それがまだ分からないのよ、悪いけど午前中……、そうね、11時までには用意できるかしら」
「承知致しました、なんとかしましょう。お届けはどこに?」
「自宅でいいわ」
「分かりました。到着時にまたお電話致します」
「宜しくね、では明日」
電話を切って再度封筒に目をやると、封筒は消えていた。
「……え?」
よく見ると、タブレットの下に黒い封筒が挟まっていた。
封を開けてみると中から出てきたのは、黒一色の厚紙でできたタクシーチケットと、わずかに銀の光沢を持つ文字で印刷されたカード。
【銀猫旅行社】
お迎え時間:明日 午後14:00
乗車地:ご自宅・住民専用ロータリー
※このカードは、人の目に触れると消失します。
※タクシーは黒の「専用車両」です。
書いてある通り、カードの文字はみるみるうちに見えなくなった。
「本物かもしれない……、ちょっと怖いわね」
なつきはそう独りごちると、封筒を握ってブルリと震えた。