13-香織の手紙と一哉の未来・ツアー終了
誰もいなくなった部屋で香織は、誰にも見せることのなかった表情を浮かべていた。
それは、静かな決意でも、悲しみでもない。
むしろ、疲れ果てた誰かが、ようやく荷物を下ろしたような顔だった。
一哉は観測者の立場から、彼女の後を追うようにして、家の中を歩いた。
香織はリビングに入ると、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
部屋は静まり返り、ただ壁の時計だけが時を刻んでいた。
「……これで、良かったのかな」
彼女は自分に問いかけるように、ぽつりと呟いた。
けれどその声には、自問ではなく、祈りに近い響きがあった。
ソファの上には、何枚かの古い写真。
写っていたのは、一哉と香織、そして誰もいない空の風景。
旅先のスナップや、部屋でふと撮られた笑顔――
そこには、二人だけの時間が、確かに存在していた。
香織は、その中の一枚をそっと手に取り、指でなぞった。
「……私は、ずっとこの時間だけを信じてたの」
その声は小さく震えていたが、やがて大きな涙の粒が写真にポタリと落ちた。
彼女は写真と手紙を封筒に入れ、机の上に置くと、バスルームへと入っていった。
一哉は、机の奥を探ると、一冊のノート、≪彼女の日記≫を取り出した。
最後のページには、こんな言葉が綴られていた。
「私は、自分が誰かの“優しさ”に耐えられないことをずっと隠してきました。
誰にも言えなかった。ちゃんと愛されていたことに、私は気づいていた。
でも、それが苦しかった。私が壊れていることに、気付かれたくなかった。
私は悪魔と契約をしました。私が振られてしまう日まで。。
私はずるいままでいたいのです。」
「でも、もし。
もし、一哉がこの先の人生に“私を赦す”日が来るなら。
その時は――どうか、自分も自分を赦してあげてほしいです。。。」
一哉は、拳を握った。
その強さが、震えた。
(香織……)
彼女は、一哉の「優しさ」すら、自分を責める材料にしていた。
もっと話を聞けば良かった。
もっと一緒にいれば良かった。
もっと寄り添ってやれば良かった。
振る事なんてしなければ良かった。
本当に壊れていたのは、自分だったのかもしれない――
時計の針が、午後11時45分を指そうとしていた。
一哉は、机の前に立つ。
すると――
ふわりと風が吹いた。
ありえないはずの、部屋の中の風。
それに乗って、机の上の手紙の封が――そっと、ほどけた。
(……香織……読んでもいいんだね?)
一哉の指が、ほどけた封を開く。
香織の筆跡だった。
優しく、丸く、けれど……ところどころかすれるような――
涙をこらえながら綴られたような、手紙。
彼は声に出さず、黙ってその一枚を読んだ。
一哉へ
あなたがこの手紙を読んでいるということは、
私がもう、この世界にいないということだと思います。
ごめんなさい。
ちゃんと伝えるべきだったことを、
私は最後まで伝えられませんでした。
別れたいと言われた。。。今日。。。
私は、ううん――
本当は、そのずっと前から、わかっていたの。
あなたは真っ直ぐで、優しくて、誠実な人でした。
だからこそ、あなたが私の「壊れていくところ」を見るのが、
何よりも怖かった。
私は、あなたの中にだけは、
綺麗なままでいたかった。
どうしてこんなに優しくしてくれるの、って、
何度も思ってた。
でも、言えなかった。
そんなことを口にしたら、
きっとあなたは、もっと苦しんでしまうと思ったから。
もしも、今日――
ちゃんと「さよなら」と言えていたら、
あなたの人生は、もっと軽くなっていたのかな。
もしも、ちゃんと「ありがとう」と言えていたら、
私も、もう少し違う終わり方を選べたのかな。
だけど私は、最後の最後まで、
ずるい選択しかできなかった。
だからせめて、
あなたがこの人生の先で、私のことを思い出す時、
「悪い夢だった」と笑ってくれたら、
それが私のいちばんの救いです。
私の死因はたぶん不明のままでしょう。
でもそれは、悪魔から渡された毒を飲んでいたから。
悪魔がいなかったら私はもっと酷い別れ方を
したと思います。
どうか、自分を責めないで。
あなたは、十分に優しかった。
私が壊れてしまったのは、
あなたのせいじゃない。
それだけは、どうか、信じていてください。
あなたに出会えて、私は――
本当に、幸せでした。
香織
最後の行だけが、すこし文字が滲んでいた。
最後の「幸せでした」の一筆だけインクが、かすれている。
彼女の涙が、その文字を濡らしたようだった。
一哉は、黙ったまま手紙を閉じる。
目を閉じ、息を吸い込んだ。
午前0時まであと5分というとき、背後から声がした。
「手紙は読めたようですね」
代表だった。
背後を見ると、全員揃っていた。
コーヒーを煎れてくれた青年が、猫を抱きながら話し出す。
「非常に姑息で狡猾な悪魔の存在が、香織さんを変えてしまいました。でも、香織さんが渡された毒をお守りのように持って、心と同化させてしまった。だから、異物ではない毒の小瓶は香織さんそのものなんです」
「何だか難しいけど、悪魔からもらった毒は瓶に入ってて、その瓶が香織の心ってことだな?」
「その通りです!ごめんなさい、説明が下手で……」
「いや、俺はまとめただけだから……」
そんなやりとりをしていると、午前0時になってしまった。
代表が言う。
「さて、そろそろ帰りましょうか。私たちの本来の時間へ」
「手紙はどうすればいい?」
「お持ちください。どうせ悪魔が後でそれを持ち去りますので、ここにあっても消える物です」
「そうか、だから警察も捜せなかったのか……、ちなみに、悪魔退治はしなくてもいいのか?」
「出来ます。ただ……、未来を変えることになり、莫大な費用が掛かることになります……」
「莫大な費用とは?」
「およそ10年分、ようするに今日から元いた時点までを修復するので10億円程ですね。香織さんがいつから悪魔と会話を始めたのか分からないので、今はこのお見積もりです」
「それは払えないなぁ……ははは」
「瓶を持ち帰ることは出来るのか?」
「やめておいた方がいいでしょう。あなたはその瓶を持っている限り、前を向けませんし、その瓶を頼りに悪魔が現れるかもしれませんから」
「そうだな……」
「さぁ、帰りましょう。」
香織の家のドアを開けると、そこは応接室に繋がっていた。
*
「敬祐、コーヒーをお願い」
「はい、少々お待ちください」
ミケがいつの間にか人間の姿になって付いてくる。
今回の嫌な予感は、やっぱり悪魔だった。手遅れだったけど。
「見せてくれるの?」
「どうせ見たいと言うのじゃろう?」
「うん」
「それ、闇を見るのじゃ」
ミケが闇を出すと、応接室の社長と種村さんが写った。
「おかえりなさい」
社長の声は、旅立ちのときよりもわずかに、温かかった。
種村さんは、胸の中にあった手紙をそっとテーブルの上に置いた。
それを見ながら、ぽつりと呟いた。
「……自分が、何も知らなかったって、思い知りました」
社長はゆっくりと頷いた。
懐中時計を閉じ、膝の上に置く。
「それが、旅の答えです。誰かを“理解する”というのは、“知らなかった自分”を受け入れるってことなんです」
種村さんは、じっと手紙を見つめる。
「香織は……ずっと、俺に優しかったんですよね」
「なるほど。でもきっと、彼女も種村さんに救われたんだと思いますよ」
社長は穏やかに笑った。
「たとえ結果が変わらなくても、種村さんが誰かを想ったという事実は、消えないですから」
種村さんの顔は、ゆっくりと温かいものが満ちていくという感じで綻んでいた。
「これで……もう、香織のことを思い出しても、俺、前に進める気がします」
「そうですか。それは、立派な“未来”ですね」
少しの沈黙。
応接室には、温かな光が静かに漂っている。
「……また、来るかもしれません」
「いつでも」
社長はにこりと笑う。
「種村さんの時間が私を呼ぶなら、またここに辿り着けますよ」
「コーヒーが入りました。冷めないうちにどうぞ」
一仕事終わったティータイムのように、皆でコーヒーを飲んだ。
きっとミケは今頃、キッチンでアイスクリームを舐めているだろう。
コーヒーを飲みきった種村さんは、立ち上がると深く一礼した。
「帰ります。本当に有り難うございました」
種村さんは、玄関へ向かう途中、ふと振り返る。
「皆さん、この仕事、続けてくださいね」
社長が元気よく答える。
「はい!できうる限り!!」
僕らはお辞儀をし、種村さんを送り出した。
アイアンゲートの前にはもう黒いお迎えの車が停まっている。
銀猫旅行社は、たった2日で12億円売り上げたことになる。
僕は本当にとんでもない会社に就職したみたいだ。