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12/22

12-最後の夜と新たな真実

気がつくと、一哉は夜の街角に立っていた。

しんと静まり返った夏の夜。遠くで車の音がして、風に乗って夕食の匂いが微かに漂う。


見覚えのある並木道。その先に、香織の家。

そして――門の前に立っている、自分。


10年前の、“別れ話をしに来た”自分だ。


「……これが、“あの夜”……」


そのとき、急に上から声がした。


「ごめんなさいっ!!遅くなりました!」


黒くて大きい羽根の生えた猫、それに捕まり降りてきた青年。

(この青年は応接室でコーヒーを出してきたやつだな……)


「代表の方は……?」


「私ならここにいますよ」

「うわッ!?」

代表は自分の真後ろにいた。


「この傘の中にいれば、この時代の人が私たちを見つけることはないので……」

「……そうなんですね」

「傘はもう一本あります。使って下さい」


「でも、この大きな猫とか、見えちゃったんじゃないですか?」

「大丈夫です。この猫に触れていると、傘を差しているのと同じ効果が得られます」


「じゃあそろそろ、ミケ、見せてあげて」

「そうじゃな」


ミケと呼ばれた黒猫は、小さくなり、くるりと回ると闇を映し出した。

その中には、俺と香織が話しをしている。


「私たちは反対側の家の角に隠れます。何かあればベルをお使い下さい。では……」


2人と一匹は影に隠れると、同じ闇を見ているようだった。


    *


観測者となった一哉は、距離を保ったままその光景を眺めていた。

香織の家の門が開く。彼女は、笑っていた。

「……久しぶり、って言っていいのかな」

「あぁ、……今日は、ちゃんと話したくて来た」

「うん。……分かってた」


香織は笑っていた。その笑顔は、何度も見た、あの優しさだった。

けれど今の一哉は、その奥に――かすかな陰りを感じていた。

「……怒ってないの?」

「怒らなきゃいけないの?」

「……分からない」


香織は、少しだけ目を伏せて言った。

「……別れたくないって、言ったら困る?」

「……香織、そういうの、ずるいよ」

「ふふ……そうよね。私、ずっとずるかった」


香織は一瞬黙ったが、最後のやりとりをした。


「私、ちゃんと、さよならって言えないかもしれない」

「ずるいよ、それ……」

「そう。だから、言わない」


10年前の俺は、それ以上何も言えず、香織に背を向けた。

そしてそのまま、二人の会話は終わった。


それが、“最後の夜”だった…………と、思っていた。


だが……、そこからが違った。


香織は家に入ると、手紙のような物を書いている。


観測者として立つ一哉の前で、香織は泣きながら手紙を書いている。

文面は見えない。


やがて、香織は外に出て、祈るような手つきで手を合わせ、目を閉じた。


それから10分後――

道の向こうから、一人の男が現れた。


一哉は目を見開いた。

あの夜の記憶には、そんな人物など一人もいなかった。


香織は、その男の姿を見つけると、ふっと安堵したように笑い手を振った。


男はフードを深く被っていた。表情は見えない。

だが、香織は彼の腕を軽く取って、門の中へと導いた。


玄関の扉が、再び静かに閉じられる。


「……香織……お前は、あの夜、誰と会っていたんだ……?」


一哉はその場に立ち尽くしていた。

手の中には、代表から渡された小さな銀のベル。


「……こんなときのための≪非常連絡手段≫だったよな……」


迷いは、なかった。

一哉は指先で、そっとベルを鳴らした。


チリリン――という音は、空気の中に吸い込まれるように広がった。

次の瞬間、世界が止まった。

時間が止まる、というより――呼吸をやめたような感覚だった。空が止まり、風が止まり、香織の家の外灯すら揺れをやめる。


そのなかで、代表が背後に現れた。

黒いスーツの裾が、揺れていた。


「どうされました?」


「……香織が、俺と別れたあと、誰かと会っていたんです。男です。フードをかぶってて、顔は見えませんでした」


一哉の声は冷静だった。

けれど、内側では心臓の鼓動が耳の奥に響いていた。


代表はしばらく黙っていた。

ポケットから懐中時計を取り出し、何かを測るように開いた。


「……そうか。なるほどね」

「あの男は、いったい……」

代表は口元だけで笑った。

それは温かさではなく、知ってしまった人間だけが浮かべる種類の笑みだった。


「――アレは、種村さんの時間に存在しなかったはずの、人ならざる者です」


「……存在しなかった?香織が死んだ夜、警察の記録にも、誰かが家を訪ねた痕跡はないはずだ。だから、余計に……誰なんですか、あれは……人ではないと、どういうことですか?」


代表はしばらく懐中時計を見つめていたが、やがて言った。

「ただの悪魔です。ちょっと強いですが……」


「悪魔!?」


「そう。種村さんが気付こうとしなかった感情を貪り、香織さんが隠し通した願いを食べ尽くした、悪魔」

「あの男は……悪魔……」

「彼女が招いたのかもしれないし、彼女の中にずっといたかもしれない」


一哉は言葉を失った。

見るために来たこの旅の中で、自分が知らない時間が動いている。


「種村さんは、この旅で“赦し”を得に来たのかもしれない。けれど――それは種村さんだけの問題じゃない。香織さんの時間もまた、赦されることを望んでいるように見える」


代表はそこで一度、銀の懐中時計を閉じると一哉に聞いた。


「続きを見ますか? ――それとも……、少し時間を戻して見直しますか……?」


「続きを見ます……、見させて下さい……!悪魔は香織をどうしたんですか?」

一哉は、静かに、けれど力強くそう答えた。


代表は頷き、懐中時計をゆっくりと開くとカチッとスイッチを押した。

次の瞬間、止まっていた時間が音もなく動き出す。


風が揺れ、家の外灯の明かりも静かに揺らめく。香織の家の中に、二つの影があった。

一つは香織。

もう一つは、あのフードの男。

一哉は、まるで空気の層の向こう側に立つような感覚で、室内を観察していた。


「……来てくれて、ありがとう」

香織が言った。

その声は、一哉の知るどの声よりも――低く、静かで、深かった。


「本当に、今日でいいのか?」


悪魔がそう言うと、香織は微笑んだ。優しい笑みではない。

まるで、告白を終えた罪人のような、穏やかな笑みだった。


「ええ。だって、もう戻れないもの」

「本当に、あの男に何も伝えずに死ぬのか?」


「伝えたら、きっと揺らいでしまう。私はあの人に、優しい嘘の世界だけを残していきたいの」


一哉は息を呑んだ。

香織のその声は、彼が知らない香織だった。


「毒は……?」

男の声が、低く鋭く問う。


「少しずつ、ずっと前から。でも、今日で終わり。これ以上は、もういらない」


「今日で最後なのか?じゃあ俺も例の物が手に入るって訳だな」


香織は、答えなかった。

ただ、遠くを見ていた。

その視線の先には、香織の部屋の机――一通の手紙が置かれていた。


「一哉には……何も知られたくないの」


一哉の心臓が、ドクンと跳ねた。


香織の声は震えていなかった。

ただ、静かに、自分の選んだ道を確かめるようだった。


フードの男は、一歩香織に近づいた。だが彼女は首を振る。

まるで、≪これ以上近づけば自分が揺らぐ≫とでもいうように。


「私の中で、一哉はずっと――綺麗なままでいてほしいの」

「そのために、自分を殺すのか?」


男の問いに、香織はふっと笑った。

「壊れるわけじゃない。……終わるだけ」


机の上の手紙が、わずかに風に揺れた。

けれど誰も、手紙に触れようとはしなかった。


「まぁ、君が本当に望むなら、僕は何も言わないよ」

「ありがとう。……あなたは、最後まで優しかった」

二人は、それきり言葉を交わさなかった。

まるで儀式を終えた巫女と、その護衛のように。


そして、悪魔は玄関へと消えた。


一哉は、呆然と立ち尽くしていた。

香織が、悪魔とあんなに親しそうに話していたこと。


そして――


彼女が、「綺麗な記憶の中にだけ自分を残すため」に、自ら終わりを選んだこと。


(……俺は……)


何を知っていたのだろう。


そのとき――

机の上の古びた手紙が、また小さく揺れた。


香織が、最後に遺したもの。

それは、まだ誰にも読まれていない。


一哉の胸に、鋭い痛みと同時に、

小さな確信が生まれた。


(あの手紙の中に、香織の“本当のさよなら”がある)


一哉は、手の中の銀のベルを見つめていた。

握っているだけで、微かに震えるような感触がある。


(……あの手紙を、読まなくては)


観測するだけの旅だと分かっていた。

けれど、どうしても――あの手紙だけは、目を通したかった。


チリリン――


再び、ベルの音が空に吸い込まれ、風も光も時も、ぴたりと止まる。


「……どうなさいました?」

背後に、代表の声がする。黒のスーツ。懐中時計の鎖が、ゆらりと揺れている。


「あの……机の上にある手紙。 あれを……読めないでしょうか」

一哉は、ゆっくりと、だが確かな声で言った。


代表は、何も言わずに手紙の方を見やった。

それから、ほんの少しだけ、肩を落としたように見えた。


「……あの手紙は、“香織さんが自分の時間の中に封じた言葉”です。それを読むには、彼女が“その存在を許した者”である必要があります」


「……じゃあ、俺は……?」


代表は懐中時計を開き、針を見つめた。


「――今の種村さんには、読めないですね」


代表は息を大きく吸うと、言葉を放った。


「……けれど、もし彼女が最後に手紙を残した理由を、彼女以上に理解できた時、封は開きます」


一哉は息を呑む。

自分に届かない手紙。

けれどそれは、彼女が最後に見せた誠実の形かもしれなかった。


「じゃあ、今は……まだ見るべきじゃないんですね」


「いや、見るべきです」

代表は、ゆっくりと視線を向けた。


「この旅で、種村さんが≪香織さんの孤独≫に触れたなら――、手紙の封は、“香織さんの心”そのものから解かれる」


「……旅の終わりに、私たちも戻って来ましょう。それまでは、“見届け人”として、静かに彼女を追ってごらんなさい」


代表はそう言って、懐中時計のスイッチを押す。


カチ、カチリ……

再び時間が流れ出した。

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