12-最後の夜と新たな真実
気がつくと、一哉は夜の街角に立っていた。
しんと静まり返った夏の夜。遠くで車の音がして、風に乗って夕食の匂いが微かに漂う。
見覚えのある並木道。その先に、香織の家。
そして――門の前に立っている、自分。
10年前の、“別れ話をしに来た”自分だ。
「……これが、“あの夜”……」
そのとき、急に上から声がした。
「ごめんなさいっ!!遅くなりました!」
黒くて大きい羽根の生えた猫、それに捕まり降りてきた青年。
(この青年は応接室でコーヒーを出してきたやつだな……)
「代表の方は……?」
「私ならここにいますよ」
「うわッ!?」
代表は自分の真後ろにいた。
「この傘の中にいれば、この時代の人が私たちを見つけることはないので……」
「……そうなんですね」
「傘はもう一本あります。使って下さい」
「でも、この大きな猫とか、見えちゃったんじゃないですか?」
「大丈夫です。この猫に触れていると、傘を差しているのと同じ効果が得られます」
「じゃあそろそろ、ミケ、見せてあげて」
「そうじゃな」
ミケと呼ばれた黒猫は、小さくなり、くるりと回ると闇を映し出した。
その中には、俺と香織が話しをしている。
「私たちは反対側の家の角に隠れます。何かあればベルをお使い下さい。では……」
2人と一匹は影に隠れると、同じ闇を見ているようだった。
*
観測者となった一哉は、距離を保ったままその光景を眺めていた。
香織の家の門が開く。彼女は、笑っていた。
「……久しぶり、って言っていいのかな」
「あぁ、……今日は、ちゃんと話したくて来た」
「うん。……分かってた」
香織は笑っていた。その笑顔は、何度も見た、あの優しさだった。
けれど今の一哉は、その奥に――かすかな陰りを感じていた。
「……怒ってないの?」
「怒らなきゃいけないの?」
「……分からない」
香織は、少しだけ目を伏せて言った。
「……別れたくないって、言ったら困る?」
「……香織、そういうの、ずるいよ」
「ふふ……そうよね。私、ずっとずるかった」
香織は一瞬黙ったが、最後のやりとりをした。
「私、ちゃんと、さよならって言えないかもしれない」
「ずるいよ、それ……」
「そう。だから、言わない」
10年前の俺は、それ以上何も言えず、香織に背を向けた。
そしてそのまま、二人の会話は終わった。
それが、“最後の夜”だった…………と、思っていた。
だが……、そこからが違った。
香織は家に入ると、手紙のような物を書いている。
観測者として立つ一哉の前で、香織は泣きながら手紙を書いている。
文面は見えない。
やがて、香織は外に出て、祈るような手つきで手を合わせ、目を閉じた。
それから10分後――
道の向こうから、一人の男が現れた。
一哉は目を見開いた。
あの夜の記憶には、そんな人物など一人もいなかった。
香織は、その男の姿を見つけると、ふっと安堵したように笑い手を振った。
男はフードを深く被っていた。表情は見えない。
だが、香織は彼の腕を軽く取って、門の中へと導いた。
玄関の扉が、再び静かに閉じられる。
「……香織……お前は、あの夜、誰と会っていたんだ……?」
一哉はその場に立ち尽くしていた。
手の中には、代表から渡された小さな銀のベル。
「……こんなときのための≪非常連絡手段≫だったよな……」
迷いは、なかった。
一哉は指先で、そっとベルを鳴らした。
チリリン――という音は、空気の中に吸い込まれるように広がった。
次の瞬間、世界が止まった。
時間が止まる、というより――呼吸をやめたような感覚だった。空が止まり、風が止まり、香織の家の外灯すら揺れをやめる。
そのなかで、代表が背後に現れた。
黒いスーツの裾が、揺れていた。
「どうされました?」
「……香織が、俺と別れたあと、誰かと会っていたんです。男です。フードをかぶってて、顔は見えませんでした」
一哉の声は冷静だった。
けれど、内側では心臓の鼓動が耳の奥に響いていた。
代表はしばらく黙っていた。
ポケットから懐中時計を取り出し、何かを測るように開いた。
「……そうか。なるほどね」
「あの男は、いったい……」
代表は口元だけで笑った。
それは温かさではなく、知ってしまった人間だけが浮かべる種類の笑みだった。
「――アレは、種村さんの時間に存在しなかったはずの、人ならざる者です」
「……存在しなかった?香織が死んだ夜、警察の記録にも、誰かが家を訪ねた痕跡はないはずだ。だから、余計に……誰なんですか、あれは……人ではないと、どういうことですか?」
代表はしばらく懐中時計を見つめていたが、やがて言った。
「ただの悪魔です。ちょっと強いですが……」
「悪魔!?」
「そう。種村さんが気付こうとしなかった感情を貪り、香織さんが隠し通した願いを食べ尽くした、悪魔」
「あの男は……悪魔……」
「彼女が招いたのかもしれないし、彼女の中にずっといたかもしれない」
一哉は言葉を失った。
見るために来たこの旅の中で、自分が知らない時間が動いている。
「種村さんは、この旅で“赦し”を得に来たのかもしれない。けれど――それは種村さんだけの問題じゃない。香織さんの時間もまた、赦されることを望んでいるように見える」
代表はそこで一度、銀の懐中時計を閉じると一哉に聞いた。
「続きを見ますか? ――それとも……、少し時間を戻して見直しますか……?」
「続きを見ます……、見させて下さい……!悪魔は香織をどうしたんですか?」
一哉は、静かに、けれど力強くそう答えた。
代表は頷き、懐中時計をゆっくりと開くとカチッとスイッチを押した。
次の瞬間、止まっていた時間が音もなく動き出す。
風が揺れ、家の外灯の明かりも静かに揺らめく。香織の家の中に、二つの影があった。
一つは香織。
もう一つは、あのフードの男。
一哉は、まるで空気の層の向こう側に立つような感覚で、室内を観察していた。
「……来てくれて、ありがとう」
香織が言った。
その声は、一哉の知るどの声よりも――低く、静かで、深かった。
「本当に、今日でいいのか?」
悪魔がそう言うと、香織は微笑んだ。優しい笑みではない。
まるで、告白を終えた罪人のような、穏やかな笑みだった。
「ええ。だって、もう戻れないもの」
「本当に、あの男に何も伝えずに死ぬのか?」
「伝えたら、きっと揺らいでしまう。私はあの人に、優しい嘘の世界だけを残していきたいの」
一哉は息を呑んだ。
香織のその声は、彼が知らない香織だった。
「毒は……?」
男の声が、低く鋭く問う。
「少しずつ、ずっと前から。でも、今日で終わり。これ以上は、もういらない」
「今日で最後なのか?じゃあ俺も例の物が手に入るって訳だな」
香織は、答えなかった。
ただ、遠くを見ていた。
その視線の先には、香織の部屋の机――一通の手紙が置かれていた。
「一哉には……何も知られたくないの」
一哉の心臓が、ドクンと跳ねた。
香織の声は震えていなかった。
ただ、静かに、自分の選んだ道を確かめるようだった。
フードの男は、一歩香織に近づいた。だが彼女は首を振る。
まるで、≪これ以上近づけば自分が揺らぐ≫とでもいうように。
「私の中で、一哉はずっと――綺麗なままでいてほしいの」
「そのために、自分を殺すのか?」
男の問いに、香織はふっと笑った。
「壊れるわけじゃない。……終わるだけ」
机の上の手紙が、わずかに風に揺れた。
けれど誰も、手紙に触れようとはしなかった。
「まぁ、君が本当に望むなら、僕は何も言わないよ」
「ありがとう。……あなたは、最後まで優しかった」
二人は、それきり言葉を交わさなかった。
まるで儀式を終えた巫女と、その護衛のように。
そして、悪魔は玄関へと消えた。
一哉は、呆然と立ち尽くしていた。
香織が、悪魔とあんなに親しそうに話していたこと。
そして――
彼女が、「綺麗な記憶の中にだけ自分を残すため」に、自ら終わりを選んだこと。
(……俺は……)
何を知っていたのだろう。
そのとき――
机の上の古びた手紙が、また小さく揺れた。
香織が、最後に遺したもの。
それは、まだ誰にも読まれていない。
一哉の胸に、鋭い痛みと同時に、
小さな確信が生まれた。
(あの手紙の中に、香織の“本当のさよなら”がある)
一哉は、手の中の銀のベルを見つめていた。
握っているだけで、微かに震えるような感触がある。
(……あの手紙を、読まなくては)
観測するだけの旅だと分かっていた。
けれど、どうしても――あの手紙だけは、目を通したかった。
チリリン――
再び、ベルの音が空に吸い込まれ、風も光も時も、ぴたりと止まる。
「……どうなさいました?」
背後に、代表の声がする。黒のスーツ。懐中時計の鎖が、ゆらりと揺れている。
「あの……机の上にある手紙。 あれを……読めないでしょうか」
一哉は、ゆっくりと、だが確かな声で言った。
代表は、何も言わずに手紙の方を見やった。
それから、ほんの少しだけ、肩を落としたように見えた。
「……あの手紙は、“香織さんが自分の時間の中に封じた言葉”です。それを読むには、彼女が“その存在を許した者”である必要があります」
「……じゃあ、俺は……?」
代表は懐中時計を開き、針を見つめた。
「――今の種村さんには、読めないですね」
代表は息を大きく吸うと、言葉を放った。
「……けれど、もし彼女が最後に手紙を残した理由を、彼女以上に理解できた時、封は開きます」
一哉は息を呑む。
自分に届かない手紙。
けれどそれは、彼女が最後に見せた誠実の形かもしれなかった。
「じゃあ、今は……まだ見るべきじゃないんですね」
「いや、見るべきです」
代表は、ゆっくりと視線を向けた。
「この旅で、種村さんが≪香織さんの孤独≫に触れたなら――、手紙の封は、“香織さんの心”そのものから解かれる」
「……旅の終わりに、私たちも戻って来ましょう。それまでは、“見届け人”として、静かに彼女を追ってごらんなさい」
代表はそう言って、懐中時計のスイッチを押す。
カチ、カチリ……
再び時間が流れ出した。