11-あの夜へ
社長と種村さんはコーヒーに口を付けると、少しの静寂が訪れた。
その沈黙を破るように、種村さんは口を開く。
「これ、お約束の一億円です」
種村さんが、すごく大きなバッグを社長に手渡した。
「有り難うございます」
社長は、お礼を言いつつバッグを受け取ると、テーブルの上に置いた。
再度座り直し椅子に腰を沈めると、静かに社長は両手をテーブルの上で組んで口を開いた。
「では改めて、当社《銀猫旅行社》のご利用にあたり、いくつかご説明させていただきます」
種村さんは姿勢を正し、目の前の社長の言葉に耳を傾けた。
「我々の提供する時間旅行は、いわば《観察型の旅》です。あなたは10年前の6月12日、午後8時から翌午前0時までの4時間、ご自身の過去の記憶の“外側”に立つことができます」
「……外側?」
「はい。直接“過去の自分”や“他人”に干渉することはできません。ただし、“見て・聞いて・感じる”ことはできます。つまり、あなたが失った時間の“真実”を、もう一度だけ――正確に“見届ける”ことができるのです」
社長はそこで一呼吸おくと、懐中時計を取り出し、カチリと開いた。
その音が、空間の“重力”を少し変えたような気がした。
「ひとつだけ、よく覚えておいてください。過去は、変えられません。これは修正の旅ではなく、理解の旅です」
一哉は、社長のその言葉にゆっくりと頷いた。
「……分かっています。 俺は――真実が知りたいだけです」
「よろしい。それでは契約書をお出しします。内容にご同意いただけましたら、こちらの用紙にサインを」
ミケが静かに、契約書を社長に差し出す。
契約書はまるで羊皮紙のような暑さで、そこには黒いインクで文字が書かれていた。
社長は契約書の内容を読み上げた。
「それでは……、内容をお伝えします……
1.過去に戻った場合、自分がそこで行った行為には、全て自己責任を負うこと。ただし、旅行者以外の過去未来が不幸へと変わる緊急事態になった場合、ツアーを強制終了することがあると了承するものとする。
2.未来に行った場合も、1と同様とする。
3.夢世界に行った場合、時間制限内に戻らぬときは、その場で一生を過ごすことを了承するものとする。
4.ツアー内で起きた事故、その他についての保険、保障、返金は一切ないことを了承するものとする。
……以上、契約を破った場合の責任は、全てお客様の責任となります。この内容で宜しければ……」
ミケがそっと近寄って黒いペンを種村さんに差し出した。
「黒よりも黒、深く流れる血の闇の影よ…… さぁ……! この黒より黒き漆黒のペンで、サインを……」
やっぱりこのやりとりは僕はまだ2回目だけど、ゾッとする。声の圧が違うのだ。
種村さんがサインを書き終わると社長が続けていつもの言葉を口にする。
「時は来た……! ……_契約の創造! ご契約……確かに……」
社長は頭を下げると、いつものポーズを取った。
「さぁ、行きましょうか種村様」
「え?今すぐ……?」
「そうです、行きましょう!」
そう言うと社長は、この間とは違う場所の本を本棚から引き抜くと、またスイッチを押した。
ゴゴゴゴ……と本棚が沈み、ピカピカのドアと壁画、ステンドグラスが見る者を魅了する。僕は、いつかここの絵が描きたいと思っているけど、きっとダメなんだろうなと諦めている。
種村さんは後ずさったけど、社長が女性をエスコートするような手つきで腰の上辺りを押して、ドア前まで連れて行く。
ミケがベールの奥で目を細めた。
「さぁ……扉の向こうには、“あの夜”が待っておるぞ」
社長が種村さんを促す。
「さぁ、両手でこのドアを開けて下さい。もし何かツアー中、私に用があれば、このベルを鳴らしてください。私はすぐに時間を止め、貴方の元に出向きます」
「わ……、分かった……」
種村さんは、唇をかすかに噛んだあと、ゆっくりと一歩踏み出しドアを一気に開け放った。そうすると、前回同様、濃霧を纏った風が吹き抜け、光で目の前が何も見えなくなる。
そして、この間と同じく、僕は住宅街に一人で立ちすくんでいた。
今回は夜だ。確か8時から午前0時って言ってたような気がする。
丁度そのとき、ミケがまた迎えに来てくれた。
「お主はどうして毎回違うところに飛ぶんじゃ……めんどくさいのう」
「ありがとう、ミケ!!」
「さ、見に行こうではないか。種村一哉と日向香織の一夜について」
ミケがくるりと回って大きな羽根つき猫になった。
両手でミケに抱かれながら、空を飛ぶ。
僕は何か嫌な予感がして、少し手が震えていた。