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10/22

10-次の日・新しい客、種村一哉

 銀猫旅行社は選ばれた者しか見つけられない。


それも、単に金や力があるだけではなく、「消せない過去を持ち、それでも前に進もうとした者」にだけ門が開く。


 種村一哉(たねむらかずや)は、ゲーム会社のCEOで34歳。夜のネットサーフィンをしていた。

いつもの何気ない検索のつもりだった。

「忘れられない人 死んだ恋人 なぜ死んだのか」


深夜二時。部屋の明かりを消してパソコンのモニターだけが煌々と光り輝いていた。

そのとき、画面に、ふと浮かび上がった一行のリンク。


《時間旅行や夢旅行をご希望ですか?》


手が止まった。そのリンクは、他のどれとも違って見えた。

フォントも、色も、ごく普通。なのに、そこだけ異常で静かに感じられた。


興味でカチ、とマウスを押した瞬間、画面がふっと暗転した。

次に表示されたのは、真っ白な画面に、ただ一言。


《あなたの時間を巻き戻すには、覚悟が必要です。》というリンク。


更に進むうち眠気が勝ってしまい、その後のことは覚えていない。


翌朝、何度検索しても、昨日のリンクは出てこなかった。

履歴も、キャッシュも、どこにも残っていない。


でも、彼のデスクトップには――

ひとつだけ見覚えのないPDFファイルが落ちていた。


【ツアー申込書_過去.pdf】


PDFをダブルクリックすると、真っ白な背景に突然文字が浮き上がった。




ようこそ。あなたの“後悔”に対応する時間旅行ツアーへのご案内です。


■対象時刻:10年前・6月12日・午後8時~午前0時

■対象場所:日向香織邸付近

■目的内容:観察・記憶再確認

■見積内容:一億円(明日当日払い)


▼本申請を希望される方は、本ファイルを印刷し署名の上、封筒にてご送付ください。

※送付先は住所封筒書き入れ時にのみ表示されます。




二回最後まで目を通すと、PDFはまた真っ白な背景だけになった。

支払いが明日と書かれていた為、急がなくてはならない気がして、一哉はすぐに印刷用紙をセットする。


印刷している間も、一哉は何故、香織の名前が出てきているのか半信半疑だった。香織は一哉のいわゆる元カノだったが、10年前に別れを告げた日の次の日に遺体として発見された。死因は不明だった。自分が別れていなければ、そこに泊まっていれば、阻止できたかもしれないという”後悔”が、一哉に纏わり付いて離れないのだった。


そうするうち、プリンターが唸りを上げて止まる。

印刷されたPDFには、確かに自分の名前と、あの日の日時と、香織の名前が記されていた。


一哉は、インクの乾きを確認してから、ペンを手に取った。

何も特別なことじゃない。ただの申込書の送付だ。

だが、そう自分に言い聞かせながらも、手はわずかに汗ばんでいた。


白い封筒に、自分の名前を書いたあと、宛名の欄にペン先を近づける。


……そのときだった。


ペン先が、封筒に触れた瞬間、一哉の耳に、“音のない音”のようなものが走った。

ふ、と部屋の空気が変わった。


壁の時計が、わずかに遅れて“コッ”と音を鳴らしたように聞こえた。

光の加減すら、まるで一瞬だけ、昼と夜の境界を踏み外したように思えた。


そして――


何も書いていないはずの封筒の宛名欄に、ペン先が触れた場所から、黒いインクがじわじわとにじみ出した。まるで封筒そのものが、一哉の意志を読み取ったかのように。書いていないのに、文字が浮かび上がっていく。その文字は、すでに最後まで正確に、整然と浮かび上がっていた。


《東京都新宿区高田馬場2丁目……》


「……書いていないのに……なんだったんだ?」


インクが乾く間もなく、その封筒はまるで“目的を得た器”のように、重くなった気がした。


一哉はとりあえず、スマホで住所の撮影を試みたが、何度撮っても住所が写らない。何も書いていない封筒だけが写る。ゾッとして怖くなったが、過去、自分が帰宅した後に何があったのか知りたい欲求が勝った。


写真が駄目なら書き写せばいいと、ペンとメモを持って再度封筒の前に立つと、今度は封筒が忽然となくなっていた。次にはドアホンが鳴った。オートロック式の家のドアすぐ前に、3つのセキュリティロックを突破して、誰かが立っている。


「どなたですか?」

聞いても答えず、ふと目をずらした途端、そこに写っていた誰かの影はもういない。一応確認のためにドアを開けると、足下に黒い封筒が落ちていた。


封筒を開けてみると、黒い封筒の中には、何かを閉じ込めたような静寂があった。


中から出てきたのは、黒一色の厚紙でできたタクシーチケットと、わずかに銀の光沢を持つ文字で印刷されたカード。


【銀猫旅行社】

お迎え時間:明日 午後13:00

乗車地:高田馬場駅前 ロータリー裏


※このカードは、人の目に触れると消失します。

※タクシーは黒の「専用車両」です。


書いてある通り、カードの文字はみるみるうちに見えなくなった。


「13時か、先に銀行に行って金を下ろさないとな……銀行に電話入れとくか……とりあえず会社は休もう」



    *



次の日、一哉は銀行に寄って金を下ろすと、高田馬場に向かった。


13時ぴったり。ロータリー裏。

一哉の前に停まった黒い車は、ナンバーも会社名も一切なかった。

後部座席の窓が、音もなく開く。


「……種村一哉様ですね?」

運転席の声は、機械の合成音声そっくりだった。


一哉は、シートに背中を預けると、車内の空気は異様なほど無音だった。

エンジン音すら聞こえず、風景が静かに後ろへ流れていく。


それに反して、一哉の頭の中には、あの夜の言葉が、くっきりと甦っていた。


「……別れたくないって、言ったら困る?」

香織は、いつもの冗談めかした声でそう言った。


一哉は、まっすぐには答えられなかった。

「……香織、そういうの、ずるいよ」

「ふふ……そうよね。私、ずっとずるかった」

そのとき香織は笑っていた。


けれど、その笑顔の奥に、“なにか”を隠していた気がする。

それに一哉は、一切気付こうとしなかった。


車は滑るように住宅街を抜けていく。

金曜日の昼下がり。犬の散歩をする老夫婦、ランニングをする人。

けれど、そのすべてが、一哉の目には遠くの幻のように映っていた。


香織の顔が、車窓に映った。振り返ればいつも、優しい子だった。

怒ることも責めることも、なかった。


だからこそ、別れた。その優しさが、怖くなった。


「……俺は、あの時、何を怖がってたんだ」

一哉は、窓にもたれかかりながら呟いた。

耳に残っているのは、あの夜の、香織の声。


「私、ちゃんと、さよならって言えないかもしれない」

「ずるいよ、それ……」

「そう。だから、言わない」

ただ微笑んで、彼女は黙った。

その沈黙が、ずっと一哉の中に残っていた。


手に握った黒封筒が、ぬるりとした質感を伝えてくる。現実のそれとは思えない、夢の膜のような感触。香織が死んだ翌朝、警察に呼ばれ、説明と昨日の晩に何をしていたか聞かれた。そのまま帰されたが、一哉はその日、何も考えられなかった。ただ、光が差し込む部屋の中で、ずっと椅子に座っていた。


今なら言えるかもしれない。

あの時、言えなかったこと。


それを伝えることはできないかもしれない。けれど、見届けることならできるかもしれない。

彼女の、あの夜の“本当の顔”を。


そのとき――

黒い車は、静かに停まった。


車窓の外に、優美なアイアンゲートが見えた。

銀色の猫の飾りが、光を受けて静かに輝いていた。


門には、艶やかな銀の文字で刻まれたプレート。


《銀猫旅行社》


運転手は何も言わず、黒い車のドアが音もなく開いた。

一哉が足を外に出すと、そこは――静かな住宅街の片隅に、違和感のように佇む洋館の前だった。


レンガの塀に囲まれた庭。

黒くて丸みを帯びたアイアンゲートには、銀色の猫の装飾が絡まっている。光を浴びてきらりと輝いたその瞬間、一哉はなぜか”時間が呼吸した”ような気がした。ゲートには鍵もなく、触れずとも――静かに、音も立てずに開いた。


小さな砂利の小道を進むと、重厚な石造りの玄関ポーチ。枯れた気配のないバラが咲き、空気はどこか、季節から切り離されたような匂いをしていた。


ドアの前に立つと、インターホンのボタンを押す。


ピンポ――ン


ガチャリとドアが開くと、黒装束の女性が現れた。


「種村一哉様ですね?」


一哉が玄関の敷居をまたぐと、空気が変わった。外の昼下がりの光が嘘のように、玄関ホールは穏やかな夕暮れ時の色に満たされていた。天井は高く、木の梁が走っている。壁にはヴィクトリアン調の淡いグリーンの壁紙。中央には、大理石の螺旋階段がゆるやかに登っていて、柱の根元には銀色の猫の彫刻があしらわれていた。


足元には、まるで音を吸い込むような深い藍色の絨毯。

絨毯の縁には、時間の象徴のような文様が織り込まれている――

砂時計、星図、月齢、歯車、時計の針。


柱時計がひとつ、音を立てずに時を刻んでいた。

その秒針は、“止まったり進んだり”を繰り返していた。


「こちらです」


黒装束の後ろ姿は、まるでこの家そのものの“影”のようだった。廊下は長く、天井には大小様々なシャンデリアが並んでいる。夕方の光が、季節も時間も関係なく、静かに降り注いでいる。


通されたのは、応接室というにはあまりに重厚な一室だった。


マホガニーのテーブル、上には温かい明かりが灯るライト。窓辺には一冊の古書と、銀猫をかたどったブックエンド。壁には、時間の風景を描いた油絵が並んでいた。朝焼けの部屋、砂嵐の中の家、沈む月と溶ける時計……どれも、どこか“あり得そうで見たことのない”世界だった。


一哉はふと、壁の一角にある大きな本棚に気づいた。そこに収められているのは、本や書類ケースだった。黒く装丁されたファイルや、見たこともない形の書類ケース。背表紙には、まるで日付のような、過去や未来の記録の羅列。


「あれは……」


「“お客様の時間”です」


黒装束の女が答える。声は柔らかいが、その言葉の重さが空間に沈む。

男が後ろで立ち上がる。


「銀猫旅行社へようこそ。私が代表の黒川終一です」


「種村です。どうぞ宜しく……」


「今コーヒーを煎れさせていますので、お掛けになって暫くお待ちを……」


「分かりました」


「敬祐、そろそろ出せるかい?」


社長にそう言われ、僕は銀盆を片手にコーヒーを運んでいった。

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