3. 偽りの笑顔
「あの、百瀬くん……だよね?」
放課後。早く部室に向かおうと準備していた僕を、隣の席の女子生徒が呼び止める。
「えっと、十文字さん、何か用?」
振り向くと彼女はええっと、と言いながらファイルからプリントを取り出した。
「確か超常現象? 部の部長だったよね。生徒会で各部活動の人にこのプリントを渡してるんだけど」
「そうなんだ。ありがとう」
プリントには『林間学校ボランティアの募集』の文字が大きく書かれていた。
「ごめんね。呼び止めちゃって」
「全然大丈夫だよ。大変だね、生徒会は」
「そんな事ないよ。先輩たちは皆良い人だから。あ、あたしそろそろ行くね」
「うん。じゃあね」
それにしても林間学校のボランティアか。時期は夏休み。夏休み中に部活で何かしたいとは考えていたから、良い機会かな。問題は小学生の林間学校の手伝いな点だ。一ノ瀬、子供を嫌ってそうだからな。大丈夫だろうか。
そんな事を考えながら席を立つ。早く行かないと一ノ瀬を待たせてしまう。
僕は貰ったプリントを鞄に仕舞うと、足早に教室を出るのだった。
☆ ☆ ☆
職員室に行くと、部室の鍵はもう貸し出されていた。一ノ瀬が率先して部室を開けようと考えるとは考えにくい。十中八九、あの先生の仕業だろう。
そう思いながら部室の扉を開けると、予想通りの人物が長机に顔を突っ伏してさめざめと泣いていた。
「……どうしたんですか」
「うるせぇ! ガキに話すようなことは何もねぇ!」
それならここで泣かないで欲しい。邪魔なので。
部室の中には酒井先生しか居ない。まだ一ノ瀬は来ていないようだ。
「なーにが『わたしぃ、21歳だから玲香さんみたいな女の人憧れますぅ』だ。年齢アピールのためのダシに使いやがって……!」
話すんだ。
「男共も若い女子ばっかデレデレして。私だってまだ二十代ですが!?」
酒井 玲香(29)の心の叫びはまだまだ続きそうだ。
「挙句の果てに私以外で二次会行きやがって――」
「先生、ハーブティーでも飲みますか?」
「……飲む。高いやつくれ。ま、お前の持ち物なら安物しかないだろうけどな」
「ははは。好みかどうかじゃなくて値段で決めるところ酒井先生っぽいで――あ痛っ!?」
思い切り裏拳をくらってしまった。痛い。
僕は額を擦りながらハーブティーの準備をする。その間も先生は呪詛のように合コンの話をしていたが、止めても無駄なことは経験上分かっているので無視することにした。
「はい、どうぞ」
「……あんがと」
先生に出したのはローズマリーのハーブティー。抗うつ作用が期待できるそうだ。酒井先生がここで愚痴を吐くようになって常備するようになった。
「はあ……なんで私には彼氏が出来ないんだろうな」
「男の見る目がないだけですよ」
「童貞のガキに慰められても嬉しくねぇ……惨めだ」
「おい」
色々と失礼だなこの人。
「百瀬。私の良いところを言え」
「そんな急には出てこないですよ」
「なんかあるだろうがよぉ……」
「えーっと、残念なところばっかりなのに自分のことを嫌いにならない図太さですかね?」
「ぶっ飛ばすぞ。ちゃんと良いところを言え。早く」
酒井先生の良いところ。……良いところかぁ。
「これから探してみます」
「嘘でもいいから言えよぉ……」
「僕が嘘言えない性質なの知ってるでしょ」
とは言っても、流石の酒井先生でも良いところの一つぐらいはあるはずだ。うんうん唸っていると、ふと先日の一ノ瀬との会話を思い出す。
「そういえば一ノ瀬から聞いたんですけど、酒井先生、一ノ瀬と一緒に住んでるんですね」
「ああ? ……話したのか、あいつ」
「先生まだ若いのに、引き取る決断が出来るところは凄いと思います」
いつ引き取ったのかは知らないが、負担がまったく無いなんてことはないだろう。ましてや、結婚したいと常日頃から言っている酒井先生が子供を引き取るなんて余程の思いだったに違いない。
「……あれはそんなんじゃねぇよ。ただ、――」
先生が何かを言いかけた時。ガラリと扉を開ける音がした。
「こんにちは、一ノ瀬。今日は遅かったな」
「……どうも」
毎日声をかけた甲斐があったのか、最近では返事をしてくれるようになった。三文字だけだけれど。大きな一歩だ。
「あ、そうだ。一ノ瀬、小学生は好きか?」
「――は?」
冷たく低い声が無事に響いた。
「先輩って学校よりも刑務所の方が似合いますよ。さっさと行ってきたらどうですか?」
「ごめん間違えた。訂正させて」
「そうですね存在が間違ってると思います。訂正してください、存在を」
執拗に存在を消そうとしてくる一ノ瀬に言葉を訂正したい僕。そんな僕たちを不思議そうに見る酒井先生。
「お前らって、そんな感じだったっけ?」
「仲良くなったんですよ。ええ」
「仲良くなんてなってないです。私と先輩では話が会いませんからね。私、大人なので先輩に合わせて相手してあげてるだけですよ」
徹底的に僕のことを扱き下ろす一ノ瀬。そろそろ何か言い返してやろうかと考えていると、酒井先生が違う違うと手を振った。
「お前らって言うか、みっちゃんだよ。みっちゃんってそんな喋り方だったっけ?」
「だったも何も、元からこんな感じでしたけど」
仲良くなった分、罵倒の容赦がなくなってきたかもしれないが。そんな事を呑気に考えていた。
――鈍感な僕は、一ノ瀬がどんな顔をしているか気づいていなかった。もっと早くに気づくべきだった。分からないはずが、なかったのに。
「――みっちゃんってもっとこう、チャラチャラ? キャラキャラしてる感じじゃなかったっけ」
「キャラキャラって……。何ですか、そのオノマト――」
「……っ」
瞬間、一ノ瀬は逃げるように部室を飛び出した。そこでようやく僕はある仮説が頭に浮かぶ。
「……先生。一ノ瀬って普段から、僕にだけかもしれませんが、結構酷いこと言うような人じゃなかったですか?」
ここは超常現象調査部。常識を超えた現象を調査する部活。
「――そうだったか? あの子が口悪いイメージなんて私には無いけど」
僕は弾かれるように部室を飛び出す。
僕はバカだ。愚鈍で、間違いだらけで、何も知らない。何も出来ない。昔からそうだ。
僕は走る。目的が無いままに。
僕は探す。かける言葉も考えずに。
僕は、僕は、僕は――。
☆ ☆ ☆
結局、昨日は一ノ瀬を見つけることは出来なかった。あれから先生に一ノ瀬について聞いてみたが、返ってくるのは僕の知らない一ノ瀬の姿。それが本当に僕が知らないだけなのか、それとも超常現象によるものなのかは定かでは無い。
今日はそのことについて話そうと心に決めて部室に向かっている道中、見覚えのある黒髪が目の前を横切った。
「お、一ノ――」
「――やっほー、すみっちゃん!」
駆けてきた女子高校生が一ノ瀬の背中をパンっと叩く。
「ねね、最近出来たカフェに行ってみよー!」
「ええー。いいけど、それどこにあるの?」
「うーんとね、駅前からぎゅぎゅーって行ったとこ!」
「なにそれー!」
あれは、誰だ。
いつもの彼女からは想像がつかない自然な笑顔。その違和感により僕は足を止めた。
「そーいえば部活は大丈夫なの?」
「だいじょぶだいじょぶ。別に毎日行く必要ないしー」
僕は彼女の姿が見えなくなるまで一歩も動けなかった。
挙げかけた手をギュッと握る。あの女子高校生が話している少女は、間違いなく一ノ瀬 澄香だ。声も顔も、姿形も昨日の彼女と何も変わらない。
違うのは表情と態度、たったそれだけ。
僕の前でだけ冷たい態度なだけでクラスではあんな感じなのかもしれない。そんな考えを直感が違うと否定する。あれは彼女とは違う存在なのだと、本来の姿とはかけ離れたものだと直感的に理解した。
誰よりも人と関わるのが苦手な彼女の、喉から手が出るほどに欲した『理想』。それが今の一ノ瀬 澄香の姿なのだ、と。
――その日、人と衝突してばかりの自分の性格を思い悩み、苦しんでいた一ノ瀬 澄香の存在が消え、『理想』という名の別人が一ノ瀬 澄香に成り代わった。