1-7 夢の中で
「姫様!」
そう呼びかけられて、彼女は思わず眉をしかめた。
「そんな堅っくるしいのは止めてよね、あなたまで」
思わず口に出して言ってしまったらしい。やってきた男が、溜息混じりに自分を見て言った。
「隣国の王子からの結婚申し込み、いかがなさるおつもりですか」
彼女が男を見る。背の高くてがっしりとした、厳しい顔つきの神官が、自分の目の前で深々と巨大な溜息をエンドレスで放出している。魔物の討伐帰りらしく、服の裾が少し埃っぽい。思わず彼女は笑って言う。
「昔みたいに、あなたが脅かして追い出してくれればいいのに」
「そんな無茶を言わないで下さい。姫様」
「ここじゃあ誰も私を名前で呼んでくれないのね」
「……」
真っ白の衣装を着た彼女が、目の前の神官を見る。
「結婚ね……」
王宮の塔の最上階から、彼女は城下町を見下ろした。真っ白の壁の建物の立ち並ぶ、美しい町並み。しかし城壁の向こうには最近竜をはじめとした魔物とよばれる者達が頻繁に現れる。ここ数年、この姫が幼い頃から側仕えしていたこの国一番の力持ちとも称されている豪腕の神官が、討伐隊の隊長として城壁の外に駆り出される日が増えていた。
「討伐お疲れ様。ゆっくり休んでって隊の皆にも伝えてちょうだい」
隣の国へ繋がる道が魔物で塞がれる、という事態も起きてきている。即位して3年。彼女は自分の小さく美しい国に何が必要なのか、どうすれば目下の問題が解決するのか、既に理解できていた。
彼女は神官に聞いた。
「隣の国の王子って、どんな人だったかしら」
「剣術に長けた、なかなかの御仁だそうで」
「それだけ?」
「一人で一日に竜を10体ほど討伐できると聞いております。王子率いるかの国の討伐体は一騎当千。明日にはここに到着するそうです、姫様」
微妙な面持ちでそう告げるこの大柄な神官に、彼女は言った。そして、
「ずいぶんとご機嫌斜めね」
「……」
「あなただってその気になれば竜の10体くらい片足で踏み潰せるって皆が言ってるわ。臆することないのよ」
「臆してなどおりません」
「それでこそよ」
むっつりと黙り込んだ男に笑いかける。
「とりあえず、その王子様とやらと色々話をしてみるわ。それでいいでしょ?」
神官が、巨大な溜息を吐き出して答える。
「粗相のないようにお願いします」
「あなたも前みたいに、やってきた王子様を叩き出すような真似はしないでね。いくら礼儀知らずな奴でも、うちの国の賓客なのよ。それと……」
いたずらっぽい目で、彼女は背の高い神官の瞳を覗き込む。そして言った。
「随分敬語が上達したのね、オラトール」
目を覚まして、いつものように窓を開けると鳩のアルテが舞い込んできた。
「おや、アルテ君。おはようございます」
スミスが目を丸くして、思わず声をかけると、アルテは加えていた一枚の封筒をぽいっと寝台の上に落として鳴き声をあげた。
「クリスタグレイン王の手紙ですね。お孫さんの後見人のマエストーソ宛ですか。わかりました、ちゃんと渡しておきますよ」
よろしい、と言わんばかりにアルテは胸を張ってもう一度鳴いてから、再び窓の外へと飛んでいく。
「さて、朝食の準備をしましょうか……そういえばアリアに、料理のコツを伝授する約束をしてましたっけ」
大きなあくびと共に、彼はカーテンを大きく開ける。そして、ふと窓側に立てかけてあった杖を見て、呟いた。
「姫様、ですか……」
何だか不思議な夢を見ていたような気がして、スミスは首を傾げながら目を瞬きさせる。
「うちの船の姫様はもう起きてますかね」
何となしにそんな事を呟きながら、彼は部屋から出て行った。
「政情不安定?」
「ええ。どうもトーリス国が本気で宝物集めに乗り出したようです」
アリアに美味しい紅茶の淹れかたを教えながら、スミスが問い返す。
「そういえば、オラトールを狙ってやってきたあの人たちも、トーリス国の?」
「まあ、そうでしょうね。私を見て、あれほどまでに恐れるあたりから察すると……」
紅茶の淹れ方を教わりつつも、アリアはこっそり考える。
(一体、何でかしら……こんなに親切な人なのに)
物腰も口ぶりも、根っから親切で柔らかく、眼帯を覗いた顔半分はそれこそ王子様のようなハンサムな顔であり、船長に相応しい知識と技術も完璧に備えたこのマエストーソは、何故か自分の事をあまり語らない。
(何歳なのかしら)
28歳のスミスよりは年下に見えるが、年齢に関しては皆目見当もつかない。そういえば、自分の祖父がこのマエストーソの事を知っていたのも不思議である。
(今度手紙で聞いてみましょ)
今朝アルテが届けてくれた手紙の中には、少しずつ健康を取り戻して、最近は部屋から出て散歩することも出来るようになったクリスタグレイン王が、手ずから作ってくれた押し花が挟んであった。
「セリスレッドの『槍』を取りにいきましょう。あそこはトーリス国から近い。先回りされると厄介です」
「わかりましたよ」
アリアにしても、『取りに行く』という言葉がそれすなわち、『勝手に取ってくる』という言葉と同じ意味だ、という事は理解できた。何とも言えない気分で、彼女は丁寧に淹れた紅茶のカップをマエストーソに渡そうと振り返ったその瞬間、突然、何かが爆発するような巨大な音と共に、船が大揺れに揺れた。悲鳴を上げて、アリアがティーカップを取り落とすのとほぼ同時に、
「伏せて下さい!」
立ち上がったマエストーソが、後ろにつんのめって転びかけた彼女を助け上げて、スミスに言う。
「トーリスですね。大砲の積み込める飛行船を持っているのは、この大陸ではあの国だけです」
驚いて声も出ないアリアを、そっとテーブルの下に押しやって、マエストーソが微笑む。
「すぐに終わりますよ」
そして、そっと部屋を出ていく。思わず好奇心と不安に駆られて、アリアはそっと、テーブルの下から這い出すように出て行くと、窓から外をそっと見やる。そして、息を飲み込んだ。
「マエストーソの鞘が……」
剣の鞘だけを抜き払って、マエストーソがそれを後ろの船へと向けたその瞬間、一気に大量の、青くきらきらと光る水が、鞘の中から迸り出た。
(水、それとも氷? すごい……)
スミスの魔法の風が、その水を後方の船へと浴びせ掛けている。思わず船室の外に出て、そしてアリアは再び息を呑む。
「船が、凍ってる……」
エム・オール号の後ろに差し迫っていた巨大な飛行船が、あっという間もなく一瞬で、氷漬けになっていた。
「魔法使いみたいなのね」
「まあ、僕の曽祖父のそのまた祖父は、魔法使いだったらしいのですが、この大陸には魔法使いは割と少ないみたいですね。それも、彼ほどの力を持っている人は」
何事もなかったかのように、船室に戻ってきて朝食の続きを取り始めたマエストーソが微笑む。
「半分は、この『鞘』の力ですよ。水が無尽蔵に湧き出るんです」
「それを凍らせたのは、あなたの魔法じゃないですか。隣の大陸にだって、あなたほどの魔法使いはそうそういませんよ?」
「そうでしょうか。あなただってなかなかですよ、スミス。あなたの魔法で風を送ってくれたお陰で、ああやって後ろの船までこの水が届いたんですから」
この二人が揃っていれば無敵、と言っていた意味を、そこはかとなく理解したアリアが、何と言えばいいのかわからなくなりつつも、とりあえず朝食を口に運ぶ。
(冒険者で、魔法使いで、船長なのね)
つくづくすごい人だ、と心底思いながら、やはりどこか謎めいているこのマエストーソを見てアリアは思う。
(不思議だらけな人ね)
紅茶を美味しそうに味わいながら、マエストーソが言った。
「急いでセリスレッドへ向かいましょう」
その途端、丸でその言葉に反応したかのように、船の向きがゆっくりと変わっていく。ぎょっとしたアリアが、声を上げる。
「え、何で? 誰か他にいるの?」
マエストーソが、ちょっといたずらっぽく笑って答えた。
「手品ですよ」
「って事は、これも魔法?」
「この船は、どの船よりも優れていますからね。私のいう事なら、ちゃんと聞いてくれるんです」