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1-6 牧師よ、船へ

 目を覚まし、アリアは自分が今どこにいるのか一瞬思い出せずに、寝台の上で数秒間ぼんやりしてから、慌てて飛び起きた。

 そして、部屋の中を見回して、何度も頭を振ってから呟く。

「服……どうしよう」

 昨夜寝る前まで身に付けていた真っ白の婚礼衣装が、船室の床に無造作に放り出されている。

(そういえば、着替えも何も持ってきてなかったんだわ)

 結婚という名の、まさに『人生の墓場』から逃げ出すようにして、謎の飛行船に乗り込んでしまった昨夜の一件を思い出し、彼女は改めて必死で考え込む事になった。

「あの船長さんと牧師さん以外に、女の人がいたかしら……」

 慣れない城暮らしで疲労していたアリアを、あの二人はすぐに、手早く掃除した船室へと案内してくれた。

「いい人達なんだけど……どうしよう」

 下着姿のまま寝台から抜け出して、彼女はいまいましい婚礼衣装をかき集める。

「でも、コルセットを締めないと着られないのよね。それに、コルセットって、一人じゃ締められない……」

 結婚という危機からは逃れられたものの、更なる危機が自分を見舞っている、という事に気が付いて、アリアはどうしようもなく、船室を見回してみる。

 そして、ふと、部屋の壁側の衣装棚に目をやった。

(まさか、あるわけないわよね)

 思わず一人ごちながら、まだちょっと埃のついている棚を開けて見て、アリアは目を丸くした。

 そこにはきちんとした女性用の服が、整然と並べられていたからである。

「着てもいいのかしら……」

 そっとその中の一枚を手にとって、身体に合わせてみると、それは彼女にほぼピッタリだった。少しばかり布地や形がレトロな年代物だったが、着心地が良い。

「まあ、いいわよね。こんないいもの、着ないと損だもの。縫い直さなくていいみたいだし、裾直しもいらなそう」

 孤児院での貧乏生活の長さを垣間見せる台詞と共に、彼女はいそいそと服を着込み、婚礼衣装を衣装棚の奥へと押し込んだ。

 そして寝台の上のカーテンを引くと、窓を開けた。抜けるような真っ青な空と様々な形の真っ白な雲が真横に見えて、思わずアリアは息を呑む。

「綺麗……」

 開けた窓から、鳩のアルテが飛び込んでくる。

「おはよう、アルテ。おじいさんへの手紙は夕方に書くわ」

 その言葉がわかったのか、アルテは窓枠の上に舞い降りて、のんびりと羽を休めはじめた。日の光の入った船室を改めて見回してみて、アリアはひとり呟く。

「女性用の部屋もちゃんとあるなんて」

 部屋の隅に、手作りらしい、シンプルなドレッサーが置かれている。

 ふと、好奇心にかられて彼女は、ドレッサーの引出しをそっと開けてみた。そして、思わず息を呑む。

「綺麗な髪飾り……」

 アンティークな髪飾りや、ちょっとした装飾品が、日の光を浴びてきらきらと輝いている。さすがに、自分が付けるにはちょっともったいないかしら、とアリアはそっとその引出しをしめて、部屋の外へと向かい、船室のドアを開けた。

「おはようございます」

 甲板に立っていたのは、掃除道具を手にしたあの眼帯の男だった。その容貌と、手にしている掃除道具との、究極のミスマッチ加減に、アリアが目を丸くしながら答える。

「あ、おはようございます、船長さん」

「マエストーソ、で結構ですよ。それで、あなたの事を何とお呼びしたらよいものか……」

 ここでまで『姫君』呼ばわりされちゃたまらない、と慌ててアリアは言う。

「アリア、でいいわ。それで……あ、勝手に服を借りちゃったけど、よかった?」

「ええ。あの部屋にあるものは……ご自由に使ってくれてかまいませんよ」

 おっかない眼帯をしてはいても、けして厳つい体つきでも顔でもなく、むしろ、このおっかない眼帯さえしていなければ、どこぞの貴族のご子息あたりで通るんじゃないかしらと、4日間だけ姫君だったアリアをして思わせてしまうその優しい声と立ち振る舞いに、思わずどぎまぎしながら彼女は慌てて言った。

「掃除なら私がするわ。毎日してたから得意なのよ。私これでも孤児院の院長だったし、大体のことはなんとかなると思うから、何でも遠慮なく言ってくれると嬉しいわ」

「頼もしいですね。掃除が早く終わりそうです。その後は朝食ですよ」

 どこからともなく、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。

「スミスが得意なんですよ」

 箒を受け取りながら、アリアは聞き返す。

「昨日の牧師さん?」

「ええ」

「この船ってもしかして、私以外に二人しかいないの?」

 すると、マエストーソがちょっと申し訳なさそうな顔をして、言った。

「すみません。女性がいないとやはり不便な事も多いでしょうが……」

 そして、苦笑しながら付け加える。

「けれど料理なら彼がやってくれますよ。作るのが好きらしくて」

 しばらくして、部屋の掃除を済ませたアリアは、マエストーソに連れられて船の後ろにある厨房へと向かっていった。

「おやおや、おはようございます。掃除はすみましたか?」

 テーブルの上の、美味しそうに焼けたパン、卵、そして新鮮なサラダに目を奪われて、アリアが思わず返事をするのを忘れるのを微笑ましげに見守って、マエストーソが答える。

「ええ、済ませてきましたよ。サラダが出るのは久しぶりですね」

「クリスタグレイン国の港市場で、新鮮な野菜を手に入れましてね。えっと、確かアリアさんでしたね。ちゃんと椅子を用意しておきましたよ」

 慌ててアリアが言う。

「アリアでいいわ」

「ああ、僕もスミスでいいですよ」

 質より量を大切にしていた孤児院での食事、そして、作法やら何やらで結局はあまり美味しく食べられなかったお城の料理、そして、目の前に出されているシンプルで美味しそうな家庭的な料理の三者を比べ、アリアは心底から、この船に来てよかった、と、満面の笑みで椅子に座り直す。

「いただきます!」

 この当たり前のような台詞も、姫君生活の4日間の間は一度も口に出していなかったという事に気付かされながらも、次の瞬間には既に、口の中に広がった味に、アリアは完全に心を奪われていた。

 彼女が久々の至福の一時を味わっているその横で、スミスがマエストーソに聞く。

「次の目的地は?」

「あと三つは、やはりそれぞれの国にあるようです。クリスタグレインから一番近いのは、セリスレッドですね。王宮の祭壇に『槍』があるそうです」

 焼きたてのパンをほおばっていたアリアが、ふと顔を上げる。

「三つって……私の『鏡』以外にも、ここにあるの?」

「ええ。僕もマエストーソも持っていますよ。ただし、マエストーソの持っている『剣』は不完全ですけどね」

「不完全?」

 マエストーソが微笑みながら、そっと腰のベルトから下げていたものを外して見せた。

「『剣』の鞘です。鞘だけですが、すごい魔力を持っています」

 そっとそれを受け取ってみて、アリアは息を呑む。

「綺麗……」

 ひんやりと冷たい、独特の肌触りの金属で出来た鞘に、青色の宝石がちりばめられていた。

「剣の方は?」

 すると、

「…………もちろん、後で手に入れにいきますよ。『槍』と『扇』を手に入れてからですけどね」

 一瞬だけ黙った後、マエストーソが微笑み返して言った。

「で、もう一つはあれです」

 横のスミスが笑いながら、厨房のドアの横を指差した。ドアの横には、アリアの身長よりも長い、巨大な棒が立てかけてある。

「あれが、『杖』なんですよ」

「杖!?」

 薄い青銅色の、何か細かく文字と、祈る乙女の姿だけが刻まれているずっしりとした巨大な棒を見て目を丸くするアリアに、スミスが言った。

「僕は『棒』だと思ったんですけどねえ。ちょっとした偶然で、手に入りまして………」


 そんなスミスがこの船にやってきたのは、半年ほど前だった。

「城の礼拝堂の大掃除?」

「力仕事が出来る人手がいるんだよ。最近ではならず者も出るとか聞いたし……」

 隣の地区の牧師が、スミスに期待の視線を投げかける。

「いいですよ。ついでに市場で買出しもしたかった事ですし……」

 のんびりと、さして深い事も考えずに返事をして、彼はさっそく、サン・カリスト王国の城の礼拝堂へ出向いていった。

 『王国』という名が残っているものの、今では五人の執政官が治める荒野の国。かつて王族の使っていた城は現在の城下町の外れに佇み、既に荒れ果てている。その荒れ果てた城にある礼拝堂の掃除の当番が、首都郊外、荒野との境界線を担当する地区の牧師である自分に回ってきたらしい。


 かつては壮麗だったのだろうその礼拝堂には、ところどころに盗賊が侵入した痕跡が見受けられた。

 銀の食器や天井の灯り、祈祷台、タピスリー、色んなものがとうの昔に強引に持ち去られた礼拝堂の床に、そんなこともあろうかと持ってきた手持ちのランプを置く。箒を片手にのんびりと礼拝堂の掃除を始めた。だがしかし、

(誰も来ませんね……)

 このただただ広い礼拝堂をたった一人で掃除せねばならないらしい。スミスは思わず溜息をついて窓を開ける。そして、気付いた。

(ああ、こんなに天気が悪くっちゃあ、しょうがない……)

 夕立が来る直前の、真っ赤な空を思わず仰いで、彼は心底嘆きを入れた。案の定、ぽつぽつと大粒の雨が降ってくる。

(今からサボっても、割に合いませんしね)

 諦め顔で、彼は箒を手に礼拝堂の中に戻っていく。そして、再び礼拝堂を見上げて溜息をついた。

「力仕事がいるって、これのことですかね……」

 礼拝堂の正面に、巨大な十字架が置かれている。盗み出すにはあまりにも重く巨大だったらしいその青銅製らしき十字架を、首を傾げながら彼はひょいっと持ち上げてみる。もう何十年も動かされた形跡がないらしい。凄まじい量の埃が舞い上がる。

(おや?)

 ごとん、と音がして、何かが十字架から外れて床に転がり落ちた。

「これは、つっかえ棒か何かでしょうか。壊してしまったんですかね……」

 十字架を床に置きなおして、何気なくその長い棒を拾い上げる。そして、その長い棒に何か文字が刻まれている事に気が付いた。

(何でしょうか)

 何となく、彼は薄暗い礼拝堂の中で、棒に顔を近づけて見る。

『われを手にするものに、楽園への道を』

 思わず口に出してその文字を読んでしまったその瞬間、唐突に棒に刻まれた文字が光りだした。ぎょっとして、思わずそれを取り落としかけるが、巨大な棒が今度は勝手に宙に浮かび上がる。

「これは……」

 驚いてスミスが棒を見つめていると、青銅の棒から低い声が響き渡った。

『汝、名は』

「え、僕ですか? スミスです。スミス・アメイズロット。牧師ですよ」

 そんな時でも自分のペースを崩さず、彼は巨大な棒に向かって丁寧に頭を下げる。

『われを受け取れ。そして外に出よ』

「えっと、ちょっと待って下さい。神様は『汝、盗むなかれ』って僕達人間に説いて……あ、でも、まあ、ただのつっかえ棒の一本くらいなら、勝手に持っていっても構いませんかね。そういえば、物干し竿がもう一本欲しかったところでしたっけ」

 数秒のぽかんとした間の後に、杖が少し震動しながら言った。

『我は棒ではない!「杖」だ!』

「は、はあ……大変失礼しました。杖さんですか」

 杖と棒の区別の境界線はどこにあるのだろう、と心のどこかで考えながら、彼は再び『杖』に聞いた。

「で、外に出るんですか?」

『追っ手がきている』

「何ですって?」

『盗賊だ』

 次の瞬間、彼の頭のすぐ横を、一本の矢が通過していった。

「盗賊って、それはまた随分となんというか……」

『だから我はお前を選んだ。力強き者よ。悪しき者の手に我らが渡る前に……』

「成るほど、これぞまさに『用心棒』ですね」

 謎の『棒』ならぬ、『杖』が、緊張感の全くないこの能天気な牧師に向かって、不服げな声を上げた。

『戦え、そして外に出よ。運命はお前を導くであろう』

「戦うって、僕は一応それなりに善良な牧師なんですが……」

 その途端、荒々しい物騒な声が彼を取り囲んで響く。

「そいつが例の『杖』だな」

 まじまじと、スミスは自分を取り囲んだ黒装束の男達を眺める。

(盗賊……にしては、何ていうか、言ってる台詞こそ月並みですが、プロフェッショナルな雰囲気じゃないですか)

 盗賊というより、何となく『暗殺者』に似た雰囲気の男達に囲まれて、スミスは溜息をついて聞いた。

「あなた達は、どなたです?」

 ただ単に緊張感がないだけなのか、それともこの牧師が実は大物なのか、どうも図りかねた男達が顔を見合わせる。

『…………おい、スミスだったな。お前、魔法は使えるな?』

 このスミス相手に威厳を出す事の無意味さを早々に悟ったのか、杖が最初のそれよりはずっと砕けた口調で『杖』が聞いた。

「ええ、まあ、ほんのちょっとですけれど。僕の曽祖父のそのまた祖父は、向こうの大陸からやってきた魔法使いだったとかで。ほんの僅かですが父から受け継ぎまして」

『じゃあ行け。遠慮はいらん。お前なら出来る。そんな気がしてきたぞ。適当にちぎって投げておけ』

 まずは早々に『荘厳な言葉で語りかける』ことを諦めたらしい『杖』が、溜息交じりに言う。

「いいですねえ、パン生地を作るの得意なんですよ。城下町で小麦粉を買って帰ろうと思ってたんですけど、ちょっとこれは無理な感じですかね……」

 準備運動も兼ねて、パン生地をちぎって投げる動作をしながら、スミスが呟いた。

『脳天気な男だ。しかし、我は「サン・クリストで最も力強き聖職者に受け継がれる」はずだが……』

 思わずスミスは笑い出す。おそらくは『力の強い』聖職者であることに間違いはないだろう。彼は何故か生まれつき、自分の体重の倍以上の重さを軽々と扱える怪力を有していた。

「ま、『力比べ』なら国でも五指くらいには入る自信がありますよ、僕は。もしかして、選ぶ相手を間違えたって思いませんでした?今」

『そうかもしれんな』

「で、楽園への道って何です?」

『後でゆっくり教えてやろう。さっさとこの場を出ろ。外で新たな出会いが待っているぞ』

 溜息交じりの声で『杖』が言った。

『お前はとてつもなく変な男だが、幸いにも正直者らしい。我を所有することを許そう』

「光栄です、杖さん。どうも、僕の人生に新たなる未知の展開が待ち受けているようで。若干生きるか死ぬかよくわからない感じではありますが、今後も宜しくお願いしますよ」

 そして、杖を握り締める。次の瞬間、彼の周りから、凄まじい風が巻き起こった。

(……いや、まあ、確かに僕はちょっとだけなら魔法が使えますが、洗濯物を乾かす程度の力しかないはずなのに……)

 どうやらこの『杖』にはそういう力があるらしい。スミスが、長い杖を手にしたまま、礼拝堂の出口へと走っていく。すると、前からも立ちふさがるかのように黒ずくめの男達が出現する。

「ちょっと失礼しますよ、『杖』さん」

 反射的に杖を構えると、スミスは軽々とその長い杖を振り回して、彼なりの手加減と共に、男達へ振り下ろす。

『やはりそっちのほうが得意だったか』

「あ、すいません、痛かったですか?うちの教会の先代が武術を教えてくれまして。要するに『汝、右の頬を殴られたら、左の頬を殴り返せ』………」

『罰当たりな聖職者もいたものだ。なんと嘆かわしい』

「うちの教会、盗賊の多い地域でして」

 自分の派遣先でもある教会に侵入してきた盗っ人の一人や二人適当にとっ捕まえて『お説教』の後に釈放するなどということは日常茶飯事だったが、今自分が対峙しているのは明らかにそれとは違う何かである。

 あっという間に気を失った追っ手の一人を飛び越え、肩を掠めて飛ぶ矢を身体を捻って避けると、彼は礼拝堂の外に走り出る。そして、ふと気付く。

(雨が止んでいる?いつの間に………)

 そして、思わず上空を見上げ、さすがの彼も驚いて目を見張った。

「飛行船………」

 自分達の真上に、何時の間にか飛行船が浮かんでいる。スミスを追って飛び出してきた男達が、それを見て何故か凍りつく。

「エスト・コルネリアだ!」

 どこかで聞いたことのあるようなその名前を耳にして、スミスが思わず首を傾げたその瞬間、音もなく下降してきた船の甲板から、一人の男が飛び降りてきた。

「それが、『杖』ですね」

 顔の半分を角と鱗の眼帯で覆った、銀色の髪のその男が、目の前にいたスミスに問い掛ける。

「ええ、まあ、そうらしいです」

 思わず頭を下げてそう答えてしまってから、スミスは聞いた。

「………失礼ですが、あなたは?」

 ぱっと一見見た感じはどうも、その氷のように冷たい風貌は暗殺者よりも『やばい』類の人間に見える。すると男が答える。

「冒険者です」

 ちょうど男と刺客達の真ん中に挟まる形になったスミスが、思わず手元に声を投げた。

「………どうします、杖さん」

『………船だ』

「了解」

 初めて会ったはずなのに、この『杖』とは妙に気が合う。スミスは次に、あらためてもう一度眼帯の男に視線を投げた。

「………というわけで、もしかするとですが、あなたは僕を助けてくれる可能性がある、と見ました。宜しく頼みますね」

 眼帯の男がちょっとびっくりしたのか、数回目を瞬かせてから、慌てて答えた。

「えっと、それでは、積もる話は……船でしましょう」

 そしてちらっと後ろに視線を投げる。宙に浮かぶ船の船底から縄梯子が垂れ下がっていた。あれを使え、ということなのだろう。駆け足でスミスがそして、男は腰から下げていた何かを抜く。

(剣の鞘?)

 横目の視界に一瞬入ったそれをスミスがいぶかしげに思った次の瞬間、男は黒ずくめの集団に向けて、その鞘の口を向けた。その途端、激しく鞘が光りだし、一気に青い水が荒れ狂う津波の様に溢れ出した。



「………で、結局、礼拝堂から持ち逃げしてしまいましたね。この『杖』ですが……。でも、あなたにはこれが必要なんですっけ、船長さん」

 エスト・コルネリア、と名乗ったその男、近くで見ると思ったよりも若かったその青年が、静かに頷く。思わず杖を抱えたまま甲板に腰を下ろし、スミスはその場で考え込む。

「とはいえ、そもそも元の持ち主が誰なのかもいまいちわからない以上、ノコノコ返却しに行くべきものでもないような気がするんですよね。『杖』本人も僕を選んだとか言っていましたし」

 さっきまで喋ってくれた『杖』も、今は何事かを沈思するかのように静かに沈黙している。

「しばらくは自宅に帰らないほうが良い気もしますしね。長年牧師をやってましたが、盗賊はともかく、暗殺者なんてはじめて見ましたよ……」

 何故かは知らないが、杖を奪い取って『杖に選ばれた持ち主は始末する』つもりだったらしい。一体どういうことなのか、自分には皆目検討もつかない。

「あなたが今日『杖』を手に入れることを、誰かが悟ったのかもしれません。………それで、お怪我はありませんか、牧師殿」

 『殿』などという語尾の付いた呼ばれ方とは無縁の人生を送ってきたスミスが、思わず眼鏡の奥の目を丸くする。

「こう見えてそれなりにタフでして。ですが………」

 思わず立ち上がってから、違和感に気付く。

「………そういえば、昼食を取りそびれていまして」

 まだ昼には少し早い時間のはずだが、緊張の糸が切れたのだろうか。自分にもまだそんな糸があったこと自体が驚きでもあったが、予期せぬ出来事の連続というのはどうやら、いつもの倍以上の空腹を招くらしい。

「それは大変失礼しました。すぐに準備をしましょう。この船には厨房がありますので………」

「なんですって」

「どうかしたのですか」

「いや、僕は料理が大好きなんですよ。『船の厨房』とかいうものは要するに、男の料理人なら誰もが一度は憧れる浪漫の固まりのようなものでして。………あの、ちょっと見てみても、よろしいですかね?」

 突如きらきらと目を輝かせ始めた『牧師殿』を見て、船長が笑いをこぼす。

「設計者自慢の厨房でして。喜んで頂けると、私も嬉しいです。もしよければ、使ってみますか?」



 食材を仕入れた直後だったらしく潤沢に揃っていたあれこれを好きなように使っていいと言われ、空腹も忘れて数刻の間厨房に篭った牧師が出してきた数々の料理を見て、船長が唖然とする。

「最高ですね」

「最高でしたからね」

 船の厨房を使うのは初めてだったが、料理好きな彼にとっては驚くほどに快適だった。調理台や棚の高さが、背の高い自分にも不思議とよく馴染む。設計者自慢の厨房。きっと料理が好きな男性だったに違いない。

「ここの厨房は、なんだか本当に使いやすくて」

「ご馳走ですね。こんなに美味しい食事は久々です」

「まあ、命を助けていただいた恩にしては安いものです。気兼ねなくじゃんじゃん食べていただければ」

 食事の作法は冒険者というよりも上流家庭のそれに似ているが、やはり冒険者なのだろう。歳の頃も20代半ば。まだ食べ盛りなのかもしれない。あっという間に皿が綺麗になっていく。

「私の方こそ、感謝をしなければ」

 食事中も眼帯を外せないことを詫びるこの船長に、食後の紅茶を淹れてやる。見た目はやや物騒な眼帯と、冬の氷にも似ている銀色の髪のせいで、どうも近寄りがたい印象のその男が、紅茶に口をつけて、ふっと息を吐いてぽつりと呟く。

「懐かしい。誰かに淹れてもらうと、こんなにも美味しいなんて」

 改めて、スミスは目の前の男を見つめてみる。

 深い哀しみや孤独、それを誰とも共有せずに、静かに耐えながら生きてきた者の目だ。腕っ節の良さ故に危険な地域に配属されることが多かったスミスが、思わず溜息をつく。

(もう少し僕が清廉潔白かつ真面目に生きていたら、何か、こう、きちんと話を聴くことも出来たんでしょうが)

 『スミス・アメイズロットは脳みそまで筋肉で出来ている』というのが教会本部での自分に対する評判だった。神もまた、自分に怪力無双などというオプションはつけてくれたが、牧師として成すべき使命を与える予定などなかっただろう。それなのに、こういう瞳をした男が目の前に突如現れるとは一体どういうことなのか。

 3秒ほど深々と考えた後に、彼は小難しい考えを一切放棄した。

「よろしければビスケットも焼きますよ。あれって保存食にもいいんでしたっけ?紅茶にも合いますし………」

 船長が顔を上げる。スミスは言った。

「宝物に楽園、実に面白そうじゃないですか」

 そして立ち上がると、このマエストーソの空になったティーカップに再度紅茶を注ぎ、静かに前に置く。この目の前の船長に向かって楽しげに付け加えた。

「お供しますよ、船長。腕利きの料理番を、雇ってみる気はありませんか?」


 その晩、彼は新たに掃除された船室の寝台で横たわっていた際に、ふと思い出した。

(エスト・コルネリア……ああ、そういえば隣のトーリス国の最重要お尋ね者でしたっけ……)

 マエストーソ・カーネリアンと名乗った船長を思い出して、彼は首を傾げる。

(罪状は確か、何でしたっけ)

 横たわったものの、どうも眠れなくなったスミスは、枕元に持ってきていた『杖』に問いかける。

「どうなんです、オラトール」

 自分が成り行きで手に入れてしまったその不思議な『杖』の名前は、オラトールといった。スミスに質問されたオラトールが、いつものように、ただし、少々最初のそれよりは多少くだけた物言いで逆にスミスに問い返す。

『お前はどう思う?』

「悪人には見えませんよ」

 再び、彼は目をゆっくり閉じる。そして、大きなあくびと共に言った。

「それに、あれほどの紅茶好きに悪人はいませんしね」

 最低限の料理しかしていなかったらしいが、紅茶の葉だけはやたら揃っていたこの飛行船の厨房の棚を思い出して、彼はのんびりと目を閉じたまま呟いた。

(ティーカップが複数ありましたしね。子供用のものも)

 厨房の棚の奥に、何故か子供用の小さなカップがそっとしまわれていた。「エスト」と名前の書かれたコップはあの船長のものなのだろう。もしかしたら子供のころからずっと、たった一人でこの船に乗っていたのかもしれない。

 底知れない孤独な日々を、一人で淹れた紅茶で紛らわす日々が、あの船長にはあったのだろう。それが酒や煙草ではなく、紅茶なのは、幸せな家庭で育てられた証なのかもしれない。

 目を開けると窓の外に月が輝いていた。静かで、美しい夜の、丸で船のような三日月を眺め、スミスはひとり呟いた。

「さて、明日の朝は我らが船長に、どの紅茶を淹れてさしあげましょうかね……」


 その次の日の朝以来、エム・オール号の船長は、この上なく美味しい食事と、極上の紅茶を毎日味わうことが出来るようになったのである。

 そして、このマイペースな牧師兼料理番と、どこか不思議な眼帯の船長の二人が無二の親友になるまでに、そう時間はかからなかった。

 ただし、サン・カリスト城の礼拝堂の宝物が、トーリス国の凶悪犯とその一味の怪力男によって盗み出されてしまったという噂が、炎よりも早く国中に広まっていったのは言うまでもない。

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