1-5 出発の灯火は白く
「……ねえ、船長さん、私、魔法を使ってみたい」
「ここでですか」
「……お城に、灯りを灯すの。できるかしら。お城の人が、おじいさまをもっと大事にしてくれるように。おじいさまが、もっと元気になるように」
離れていく城を眼下に眺めて、アリアがぽつりと呟く。
「この4日間、私、何もわかんなくて、どうしようもなかったけど、おじいさまに会えたことを、感謝したいの。それに………もしかして、昔みたいにお城に灯りが灯れば、ちょっとは、何かが変わるんじゃないかしら。何が変わるのか、わからないけれど………」
窮屈だった4日間。そしてこれからは先のことなどわからない冒険の旅。
帰ってくることはあるのか、今はまだわからない。自分は『姫君』ではなく未だ『孤児院の院長』なのだ、という矜持のようなものもある。
けれど、生まれてから一度も本物の家族を持たなかった自分に、心優しい祖父がいる。自分が旅から帰る場所は、どこになるのだろう。
船長が微笑む。形式的なものではなく、心から。
「……昔、こんな言葉を聞かされたことがあります。『地位や立場、血縁に基づいた呼び名でなくなった時に、『お姫様』は本物の『姫君』になる』のだと」
船長が、アリアに片手を差し出した。その所作の美しさと、節くれだった船乗り独特の手の形の奇妙な差異に目を白黒させながら、恐る恐るアリアは自分の手を、その手の上に乗せた。
孤児院で家事や育児に追われているうちに荒れてしまった指先、4日間の姫君生活でも治らなかったその指先が、少しずつ光る。
「お力添えをしましょう。私も、魔法を授かったのは15の時でした」
風もないのにふわり、と髪が揺れる。魔法を使う、という感覚は慣れなかったが、ひんやりとしていて、それでいて暖かい感覚が、体中に流れ込む。
「船長さんは、魔法使いなの?」
「ええ。剣よりは魔法が得意です。船長なのに、不思議でしょう?」
子どもたちに読み聞かせた絵本に出てくる船長というのは大体、腰から剣を下げていた。そんな船長が腰から下げている剣と思しきものをよく見ると、そこには何故か鞘しか下がっていなかった。
アリアが思わず目を丸くする。そんな彼女を見て、船長は微笑む。
「さあ、灯したい場所をよく見て、想像してください。美しく輝く城を。魔法というものは、人の心次第。優しい心であれば、優しい光が灯る。そう、あなたの祖父君、クリスタグレイン王の様に」
みるみるうちに遠ざかっていく船を、バルコニーで見送る。
たったひとりの可愛い孫娘。たったひとりのクリスタグレインの後継者。手元においてゆっくりと育てたかったが、今はその時ではない。
たったひとりの息子がある日突然出立した様に、孫娘も手元から飛び去っていく。出立した息子は帰らぬ人になった。心の片隅に、言い知れぬ不安がよぎる。
その途端に、部屋中の灯りが突如、白く明るく輝き出した。
かつては自分の掌から灯されていた懐かしい光。それよりもより美しく、みずみずしい希望に満ちている、虹色を帯びた若々しい真珠の様に白く美しい光。
それが自分の部屋だけではなく、城中の窓から次々に溢れ出す。
「アリア」
空の彼方に浮かぶ船が、丸で流れ星のように輝いている。孫娘にあの船長が『魔法の使い方を教えた』のだろう。
城中の喧騒、そして歓声にもよく似た驚きの声が、壊れたドアの隙間から聞こえてくるのが妙に可笑しくて、王はくつくつと笑う。
引退同然の身だったが、どうやらそうも言ってはいられないらしい。
まずは可愛い孫娘が苦労して守り続けた孤児院に、この小さなランプと共に、土地の保証書、そして、優しく信頼の置ける院長先生を送らねばならぬ。食料、お菓子、日用品もだ。城下町に詳しい者を呼びつけよう。
そして、セオドール王、まさか自分と同世代の王が、自分の孫娘に結婚を申し込んでくるとは。
最後にあの王と会ったのはいつだっただろうか。一旦お流れになったこの度の結婚話を詫びる手紙をしたためるついでに、トーリス国の近況をそれとなく聞いてみるのもいいかも知れぬ。
そしてあのエスト・コルネリア船長。
何かが動きだす。それが希望か、そうでないかもわからないというのに、賭けてみる気持ちになったのは何故だろう。
すっかり埃を被っていた、執務官を部屋に呼びつける専門のベルを鳴らしながら、昼間のように明るい部屋の壁にかかっている息子の肖像画に向かって、クリスタグレイン王は呟いた。
「……要するにわしは、お前の父だったということだよ」