1-19 コンパスは指し示す
「こんなものまで売ってるんだ」
「………役に立つかもしれませんね。風と炎で動かせるはず」
手回しミシンの入った木製ケースを片手に、マエストーソが呟いた。
「なるほど。僕とチャーリーですね」
一行の前の大きな露天で売られていた、折りたたみ式の籠がついた二人乗りの小さな気球を前に、4人は思わず足を止める。
「俺、割とそういうの得意だしな」
「高いところはあなたの独壇場ですしね。買っていきましょう」
「太っ腹ですね」
「私、そっちの部品持つわ」
アリアとスミスが露天の商人と話すのを横目に、ふとチャーリーが言った。
「ああ、そうだ。そこの双眼鏡もあるといいな」
「そうですね。どれにしますか?」
「そっちの軽いやつかな。そういやコンパスは持ってたっけな。サーカス団に置き忘れてなければ………」
マエストーソと一緒に露天の前に座り込んだチャーリーがふと言葉を止め、双眼鏡を選ぶ手を止める。
「どうかしたのですか」
そして、突然マエストーソの顔をまじまじと見て、言った。
「………俺、絶対どこかで、ずっと昔にマエストーソの名前を聞いた気がしたんだ。『エスト・コルネリア』の方だけど。それを、どうしても思い出せなかったんだけど、そうだ、思い出したんだ」
不思議そうな顔になる船長に、
「あっ、ご、ごめん。船に戻ったら言うよ。たぶんびっくりすると思う」
頭をかきながらチャーリーは言った。
その日の夜、少しばかり緊張した面持ちで船長室にやってきたチャーリーが、
「昔、親父から貰ったんだ」
ことり、と部屋の机の上に、古ぼけたコンパスを置いた。
「すっかり忘れてたけど、思い出してさ。もう、何年も前なんだけど、旅先の港町で泊まった船で、小さな船長に会ったって。その子が、俺にくれたって………」
『エスト・コルネリア』と幼い文字で名前が書かれたコンパスを、手に取る。
「………私のものです」
マエストーソが、やってきた彼を椅子に座るように促す。
「俺、その時はまだ3つくらいだったかな。親父もたしかその何年か後にトーリスに立ち寄ったんだけど、その時の船はもうどこにもいなくて、誰に聞いても何も知らなくて、夢だったのかもって言ってた」
片目を大きく見開いて、懐かしそうにその古ぼけたコンパスを掌の上に乗せ、しばらくの間沈黙した後に、マエストーソは言った。
「そう、その方です。最初に、飛翔石をくれたのは」
「飛翔石………もしかして、船倉にあったやつ?」
「ええ。………動力部分が完成しないまま、この船の設計者である父は亡くなりました。けれど、私には魔法の力があった。………これは、魔法を込めれば、任意のものを飛ばせる石です。小石くらいの大きさなので、通常は大きなものを浮かせるのは不可能ですが、私は、魔法をありったけ込めて、この船を飛ばすことができた」
ものすごい量の魔法を使える人物が、世界には稀にいるらしい。おそらくはこの船長が、そういう類の人間なのだろう。
「旅を続けているうちに大きいものを入手して、交換したのです。大事な石ですから、無くさないように」
立ち上がると、奥の机の引き出しから、小さな小箱を取り出した。
「船長」
「何ですか、チャーリー」
「………船長の昔のことを、少しだけ、聞いてもいいかな」
自分の口から何故こんな言葉が出たのだろう、と、問いかけたチャーリー本人が問われたマエストーソよりも驚いている。
「あ、えっと、ごめん、その」
「いいんですよ。いつか、皆に話す日が来るでしょう。スミスには、前に少しだけ話してもいますしね」
それが何となく愉快で、マエストーソは笑いを零しながら、椅子に腰掛けて目を閉じる。
「………幼い頃、僕は「エスト・コルネリア」と名乗っていました。ペンネームみたいなものですね。父の造ったこの船に乗って世界を旅するかっこいい船長になるって夢見ていたんです」
そして、息を大きく吐いて、静かに続ける。
「旅立ちの日を、思い出します。ちょうど、アリアと同じくらいの歳だった。………かっこいい、という言葉からは縁遠い、波乱の船出でした。明日のこともわからず、ひとりぼっちで。すがるような気持ちで、以前親切な旅人から貰ったあの小石を握りしめて」
船長室の天井から吊るされている年代物のランプの揺らめく光が、そんなマエストーソの肩の上に静かに落ちる。外の波の音、風の音が、ひときわ大きく聞こえてくる気がする。びっくりするくらい静かな夜だ。サーカス団にいた頃は知らなかった夜の静けさに促されるように、チャーリーは両手を膝の上に乗せて握り、椅子に座り直す。
「………あの日、僕をどこかへ連れて行って、と、ただただそう願って、気が付いたら雲の上にいました。はじめて見る空の青さと広さに、圧倒されて」
蒼空に漂う船の甲板に、まだ幼さの残る銀髪の船長がひとり佇んで空を見上げる姿を、チャーリーはふと想像してみる。恐ろしい見た目の眼帯はその頃からつけていたのだろうか。紅茶や甘いものが大好きな一面を持つ穏やかな青年船長にはあまり似合わないそれを。
「行く宛などなかった。けれど、天国とは、あんなにも遠い場所なのか。まだ、行ってはいけない場所なのだ、と。その時、決めたんです。私は「エスト・コルネリア」、まだ成すべきことがある。逃亡者ではなく、冒険家として生きていこう、と」
死を意識するほどの辛い出発。お尋ね者、大悪党、と呼ばれているはずなのにとても穏やかな今。何があったのか、それ以上を問わないことにし、チャーリーは言った。
「………それなら、親父のやつも、やっぱりきっとどこかで生きてるんだろうな。細かいことばっかよく覚えてるタイプだから、マエストーソのことも覚えてるはずだ。会ったらきっと、喜ぶよ」
「いつか、お礼を言えたらと思っていました」
甘い香りの茶葉が混ざった優しい紅茶の匂いが、鼻をくすぐる。
「………親父も、今の俺みたいに、もしも旅のどこかですごく特別なものが出来たんだったら、そう言ってくれればよかったのに」
アリアと一緒にアイスクリームを買うため屋台まで駆けた時、スミスと一緒にたわいないおしゃべりをしながら市場を歩くとき、そして、こうしてマエストーソと一緒に、夜の船室で昔のことを語る今。こんな日々が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
「だから、親父を探す旅に出るって決めたとき、サーカス団に入ったんだ。冒険家になりたいって言い続けてて、母さんを困らせてたくらいなのに。……俺、多分怒ってたんだろうな。親父の、そういう生き方に。面白いし、優しかったし、土産もいっぱいくれたけど」
この紅茶のほんのり甘い味に、小さかった頃の思い出が誘いだされるのだろうか。誰にも喋ったことがなく、自分でも自覚したことがなかったあれこれが、胸の奥から染み出してくる。
「………自分のやりたいことを、自分で決めたことってなかったし、サーカス団は楽しかったんだけど、自分から何かを好きになったことって、ないんだ。でも………」
それでも何故かずっと捨てずに持っていた、父親がくれたこの小さく古ぼけたコンパスの針が、もしかするとこの船を指し示してくれたのかもしれない。そう考えると、あの父にも素直に感謝することが出来る。
「もしもこうして旅をしてるうちに父さんに会えたら、今度はちゃんとお礼が言える気がするし、言いたい。だから………」
膝の上の掌を握り直し、背筋を正し、チャーリーは、言った。
「………俺、この船に、もっといてもいいかな。掃除や、武器の手入れなら、得意だ。ロープの結び方ならいっぱい知ってるし、高いところだって登れる。勉強もまともにしたことないし、手紙だって書くのにすごく時間かかるけど………」
そんな年下の少年に、マエストーソはいつものように優しく微笑む。
「一番高いところに登れる人が、一番遠くを見れます」
この年下の少年に双眼鏡を買った日を、誇りに思う日が来るだろう。古ぼけた懐しいコンパスの針が、船長室の灯りの光を受けて光る。
「このコンパスは、あなたに預けておきましょう。それと………」
そして、再度立ち上がると、船長室の部屋の壁に無数に貼られた地図のうちの一枚を、指先で丁寧に外す。
「この地図を、あなたに」
古びた地図に、どこか見覚えのある筆跡で、あちこち走り書きされている。そして、裏面に
『チャールズ・アダマント』
自分と同じ、父親の名前が記されていた。
「石と一緒に頂いたものです。あなたの名前を聞いた時に、少し懐かしい気持ちになった理由が、今わかりました」
言葉を失ったチャーリーに、マエストーソは片手を差し出した。
「これからも、よろしくお願いします。あなたには、あなたが知らない勇気がある。それは、あなたがなりたいものに、一番必要なものです」
楽園なんか目指さなくても、自分にとっての楽園は他ならぬこの船なのだろう。けれど、自分を助けてくれたこの船長の欲しいものを、どうにかして手に入れる手伝いくらいなら、自分にも出来るのではないか。
どことなく優雅な立ち振舞いからは意外な程に、年季の入った細かい傷跡も見受けられる、大きく節くれだったこの船長の掌を握り返し、言葉もなく、何度も大きくチャーリーは頷いた。
航海士見習、と書かれた札がチャーリーの部屋のドアにかかっている。アリアが箒を片手に首をちょっと傾げてから、ちょうど空から舞い降りてきたアルテを肩の上に招き寄せて笑う。
「ねえアルテ、私はここで、何になろうかしら」
マエストーソが厨房で、スミスに何かを話している。きっとこの『航海士』のことだろう。
スミスがいつもよりも嬉しそうに笑っているのを見て、何となく自分の顔からも笑顔が溢れてくる。
買ってもらったばかりのミシンはとても使い心地が良く、昨晩一晩かけて、剣の鞘を収めるホルダーを革を縫い上げて作ることが出来た。
あとは『槍』や『杖』用にも同じようなものを準備し、傷んだカーテンやテーブルクロスも交換し、ベッドカバーも冬に備えて暖かいものを縫っておかねばならない。
「何か他にも、できる事があるといいけど………」
少なくとも来年の春までは、自分はこの船にいよう、と、昨日市場で決めたばかりだった。
(不思議ね。皆に祝ってもらえる誕生日はとても楽しみなのに、『まだ』来なくてもいいって思えちゃうなんて)
アリアは目を瞬かせる。ついつい夜遅くまでミシンを走らせていたせいか、少し疲れているのかもしれない。
瞬かせた目をこすって肩をぐるぐる回し、うんと大きく伸びをしてからアルテの小さな手紙鞄を開けると、祖父からの手紙が入っていた。
封の表書きに、何やら一文認められている。
『アリアへ。トーリス国に行くことがあったら開けなさい』
「………何かしら」
甲板で手紙を片手に首を傾げていたアリアに、南国の夏の朝のまだ少し優しい日差しが降り注ぐ。
雪ばかりが降るという国トーリス。自分に突然結婚を申し込んできた国王、そして、あのセリスレッドの王様を呪い殺そうとした呪術師がいる国。
だが、どうやらマエストーソはその国に浅からぬ因縁があるらしい。
「今はまだ開いちゃだめって、どういうことかしら」
毎日の、新鮮味に溢れた旅の日々を祖父宛の手紙に書き綴るのは、既にアリアの大事な日課になっていた。
闊達な笑顔で笑う父の肖像画の掲げられた寝台に腰掛けた祖父が綴ってくれる美しい筆跡の手紙には、城のこと、国のこと、まだ幼かった父が城で日々巻き起こしていた小さな冒険譚の数々、アリアのいた孤児院の近況、庭に咲いた花のことなどが静かに、祖父ならではの優しい言葉で綴られている。
「………おじいさまのことだし、何か、考えがあるのよね、きっと」
部屋に戻って、その封筒を大事に、今はミシン台として使っているドレッサーの引き出しへしまう。引き出しの中の、かつてこの部屋の主だった人物のつけていた美しい髪飾りを見て、アリアはふと思い出した。
(そういえば、マエストーソのお母さんについて聞いたんだったわ)
そこに、部屋のドアをノックする音とともに、スミスの声が響く。
「朝食が出来ましたよ!今日はアリアが好きな蜂蜜と木の実のジャムを乗せたトーストです」
「すぐ行くわ!」
あわててドレッサーの引き出しを閉めて、アリアは箒を壁に立てかけて部屋を出る。海からの潮風に乗って、焼きたてのパンと淹れたての紅茶の香りが厨房から漂ってくる。
夏というのはこんなに楽しい季節だったのかと驚いたことを、祖父に書き送ったばかりだったことを、ふと思い出す。
少しばかりの胸のざわめきを抑えながら、いつもの朝と同じように、アリアは厨房へと駆けていった。